後ろに立つ者
正面で話しているつもりで、実は相手の後ろ姿しか追いかけていたいないことに気付いてしまうと、今度は、和代の方が冷めてしまう。ヒステリックな状態から、今度は冷静になると、自分から相手の男を避けるようになる。
しかし、それは相手に帰ってきてほしいという気持ちの裏返しでもあり、相手にこちらを向かせる作戦でもあるのだ。最初から冷静な相手であれば、きっとそんなことはお見通しであろう。
相手が振り向いてくれないと思った和代は、焦ったに違いない。その時になって、初めて相手の気持ちを分かったのだとしても、すでに後の祭りだったのだろう。
ひょっとして、相手の男性も本当に和代のことが好きだったのかということを考え始めたのかも知れない。いくら冷静な男であっても、本当に好きな相手であれば、未練は残るはずだからだ。
信義は、和代を見ていると、自分も本当に和代のことが好きなのかを自問自答してみた。繰り返し考えてみたが、
――もう離れることができないくらいに好きなんだ――
という結論しか出てこない。
喧嘩になるのだって、お互いに相手に対して持っている願望があり、少しでも近づいてほしいという考えがあるからだ。
「喧嘩するほど仲がいい」
と言われるが、まさしくその通りだ。
喧嘩をすることでさらに相手が何を考えているか、そこで分かってくるからではないだろうか。一方通行では、どうしようもない。
そう思っていると、そのうちに喧嘩することもなくなってきた。しかし、喧嘩しなくなると、今度は和代の方が、信義を避けるようになっていた。
――俺のどこが気に入らないんだ?
と思っていたが、どうやら、その理由が別れた彼にあるのだということに、しばらくして気が付いた。
最初から信義を見ているつもりで、意識していたのは、前に付き合っていた彼の残像を追いかけていたのだ。時々、ふと和代が何を考えているのか分からなくなることがあったが、それは、和代が無意識のうちに、信義と以前付き合っていた男性を比較していたからに違いない。
最初は無意識だったが、喧嘩を始めた頃から、
――意識していたんじゃないか?
と思うようになっていた。
言葉の端々で、言い返してくる信義に対して、ムキになって向かってくる中で、
――俺を見ているようで、俺の後ろを意識しているように感じるのは、なぜなんだ?
と感じていた。
それが前の彼に対しての視線だと思うと、腑に落ちなかった点も分かってくる。そもそもの喧嘩の原因も大したことではなかったのに、
――どうして、こんなにムキになるんだ?
と、頭を傾げてしまうほどだった。
確かに和代は神経質なところがあったが、ここまで豹変するほどとは思っていなかった。それは他の人も同じようで、
「何か、彼女を怒らせることしたんじゃないの?」
と、パートのおばさんに言われたくらいだった。
「そんなことはないですよ」
とは答えたが、考えてみれば、何が彼女の逆鱗に触れるのか分からない。知り合ってまだ少しではないか。
どうやら、前に付き合っていた男性、名前は里山というらしいが、あまり和代と衝突はなかったようだ。和代と、前の彼氏と二人ともに仲が良かった人の話では、
「里山さんは、和代さんを怒らせるようなことがなかったからね。和代さんが怒りそうになっても、うまく吸収してあげられるような人だったですね」
と言っていた。彼の名前は佐藤と言った。佐藤は、高校の先輩でもある里山に、いろいろ社会人としての心得を教わったらしい。
佐藤の話で分かったことは、要するに前の彼氏は、
――大人の男性――
だったということである。そのことは認めなければいけないだろうが、
――俺はその人の代わりじゃないんだ――
という思いが強い信義は、喧嘩になるのも仕方がないとまでは思っていたが、喧嘩が続いていくうちに、和代の精神状態のバランスが崩れてきているのを感じていた。
その理由が分かったのは、しばらくしてからのことだったが、それを教えてくれたのは、佐藤だったのだが、佐藤がいうには、
「どうやら、転勤先で交通事故に遭って亡くなったらしい」
ということだった。
「和代はそのことを?」
「多分耳に入っていると思う。ただ、交通事故に遭ったのは、里山さんが会社を辞めてからだったので、会社の他の人が知っているかどうかは、分からないんだけどね」
里山という男は、会社を辞めていたという。和代はそのことを知っていたのだろうか?
「和代さんは知っていたと思いますよ。里山さんが会社を辞めたこと」
「どうして分かるんですか?」
「里山さんは会社を辞めた後、僕に会いに来ましたからね。その時、多分和代さんにも連絡を取ったんじゃないかな?」
「でも、別れた相手なんでしょう?」
「そうですね。でも、本当は里山さんは別れたくなかったようです。和代さんには、自分から別れたような印象を与えていましたけどね。里山さんはそんな人なんですよ。さりげないところで人に気を遣って、自分には何も残らなくてもいいと思っているところがある。里山さんも和代さんと一緒で母子家庭だったので、お互いに気持ちは分かっていたと思いますよ」
「まさか、佐藤さん。あなたは和代さんのことを?」
「ええ、好きだったですね。でも里山さんと付き合い始めたのが分かると、僕には到底太刀打ちできないと思うようになったですね。二人が母子家庭で気が合うからだというわけではなかったんですが、僕は、好きな人が誰かと付き合っていると知ると、諦める傾向が昔からあったんですよ」
なるほど、そのあたりは、佐藤を見ていると分かってくる。引っ込み思案なところがあり、人に気を遣うことが一番の美徳のように思っている。
――だから里山と仲がいいのか、それとも里山と仲がいいから似てきたのか、どちらだろう?
と思っていたが、後者の方が強いような気がする。里山の影響力は確かにありそうだが、見ていると、佐藤という人は、今だ自分の性格について、自分でハッキリと分かっていないところがあるようだ。
――なるべく自分に自信がないことを、人に悟られないようにしようという思いが、気さくで人懐っこさに表れている――
と感じたからだ。
それにしても、里山も母子家庭だとは思わなかった。
信義はどちらかというと、何不自由もなく育ってきて、初めて社会に出てきた。まわりの人と接する時、皆自分よりもしっかりしている人ばかりだという意識をどうしても持ってしまうのも無理のないことであろう。
その意味で、
――里山には勝てない――
という思いを抱いたこともあった。それが和代との喧嘩に結びついたのではないかと思っている。もし、それが直接の原因でなくとも、原因の一端を担っていたのではないかと思っていたのだ。
喧嘩をすると、和代の顔色が変わってきた。
――和代は、ひょっとすると、里山と喧嘩をしてみたかったのかも知れない――
今思えば、そう感じるふしもあった。
里山にとって和代は、あくまでも自分の手の中にいる存在だったので、喧嘩をしなくても受け入れるだけの器があった。しかし、信義にはそこまでの度量はない。何よりも一番大きなことは、知り合ったのは相手の方が先だったということだ。