小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

師恩

INDEX|8ページ/15ページ|

次のページ前のページ
 

清国のあの、細面の官僚は、すでに官服を脱ぎ、朝珠も外し、日本式の膳の前に胡坐をかき、顔を真っ赤にして酔態を露にし、酒の相手をする女を無造作に抱き寄せて、はははと大笑いしている。
隣の席の日本側の役人は、職務を忠実に守り、一方で側近に料理と酒を出すよう命じ、また一方では《留学生取り締まりに関する会談紀要》を細面の官僚に手渡す――

ほろ酔い気分の細面の官僚は、気分絶好調とみえて大声で叫ぶ“筆を持て!”側近が命令に応じて駆け付けるや、官僚は鮮やかな筆遣いで署名した。
“乾杯!”在席の誰もが歓喜の声をあげ、その声が広野に響き渡った……

(十二)
一つ山を隔てた“天成名湯”の露天風呂は湯気に包まれている。
清国の留学生たちは温かい湯に浸かって、全身の血液が滑らかに流れる心地よさを満喫している。
“雪が降ってきたぞ!”と誰かが嬉しそうに叫ぶ。皆舞い落ちる雪を見上げ、興味津々で雪が温泉に舞い落ちるや瞬時に消えるのを見届ける……。“雪は実に美しい、ただ実に儚い!”誰ともなく感嘆の声が漏れる。
周樹人は温泉に浸かりながら、身体をずらすと、天を仰いで“道理で、《紅楼夢》の中で、林黛玉がこんな名句を読んだわけだ:質本潔来還潔去(質(しつ)本(もと)より潔(きよ)く来れば還るも潔く去らん)――”

“不教汚?陥渠溝(?(どろ)に汚れ渠(きょ)溝(こう)に陥ることなからん)。良い詩だね!”周作人は湯に暖まっていささかうっとりとしている。
“ああ――”陳天華が長い溜息をついて:“近頃の男子は女子に及ばない!”
周樹人はその言葉を聞きつけて、そっと尋ねる:“天華さん、それはどういう意味ですか?”
陳天華は頭を横に振って溜息をつき、憤懣やるかたない様子で:“聞くところによると、清国の官僚もここ箱根に来ていて、酒色におぼれ、ふしだらの限りを尽くしているらしいのだ……” そばにいた許寿裳はそれを聞くと、警戒してあたりをきょろきょろ見回し始めた。
“政府の腐敗した現状はともかく、その醜態を国外で晒したとすると、よからぬ結果を生み出しかねない!”周樹人は危機感に神経をとがらせる。
“あ……”許寿裳が驚きの声をあげる。
“どうしたんだ?”陳天華は話の腰を折られて、少し気を悪くした。
“振り向いて見てみろよ。あれは……男女混浴じゃないか!”許寿裳は恥ずかしそうにある方向を指さす。
それを聞いて、多くの留学生たちがバシャバシャとやって来て取り囲み、許寿裳の指さす方向を、恥ずかしがりながらも興味深げに見やった。
“みんな、よそうよそう!”と陳天華、“男女混浴なんて日本では珍しくない。僕たちが、大げさに騒いだら、それこそ……軽く見られてしまうぞ――”
“そうともさ、妖怪に出会っても怖がらなければ妖怪も消えるってことさ!”と、許寿裳は成り行き任せに弁解して“実際のところ、男女混浴なんて大したことじゃない、へへ……”
“じゃあさっきは何であんなに騒いだんだ?”ある者は不満そうに言う。
“それで今は聖人君子かい?”ある者は馬鹿にする。
 周樹人と周作人は顔を見合わせて苦笑いし、黙って首を横に振って溜息をもらした……
(十三)
日本静岡県の景勝地“熱海”。
この地には珍しい温泉がある。海底から沸き立った温泉が海面に現れている。海底温泉とも言うべきで、そのため“熱海”と呼ばれている。
この時、孫文先生はここ“熱海”温泉で、経絡をほぐし、疲労を癒していた。頻繁な力強い演説活動に加え、追っ手を避けての連日の移動で極度に疲労していたのだ。 転戦を重ね、やっとこのたびの旅程の起点であり根拠地でありまた終着点でもあるこの地にたどり着いた。明日、彼は遠く南洋に赴き、資金を集め、“帝王を追い払って中華を取り戻す”ために民主革命の武装を整えるのだ。
寒い冬が訪れ、この海辺の景勝地を訪れる人は少なく、孫文はいくらか気を緩めることができた。ただ、冷たさと熱さが隣り合う海水に身を置き、あたかも相容れない氷と火の戦いにも似た過酷な闘争を体験しているかのようでもあった……
孫文が湯に浸かっている海域にはいくつかの高さの異なる岩礁が立っている。左右の岩礁の頂には二人の護衛が、それぞれ釣り糸を垂れている。 その様子は、悠然としているが、実は周囲にくまなく目を配り、どんな物音も聞き落とさないのだ!

会場の温泉からそれほど遠くない浜辺の歩道はこじんまりとした公園に続いている。常緑樹の灌木がきちんと剪定されていて、緑の帯が壁際の手洗い場や更衣室に続いているようで、温泉利用客にはとても都合がよい。
その緑の帯に沿って、木製のベンチが置かれている。海を臨む端に置かれたベンチに、二人のモダンな装いの婦人が端座している。一人は東洋的な服装の見るからに懐の深そうな女性、秋瑾、もう一人は西洋的な装いで、フランス風の礼帽にアメリカ風のドレスがぴったりと調和している。この人は宋慶齢嬢――孫文の終身の伴侶であり秘書である。二人のそばには革製の小さな旅行カバンが置かれている。
宋慶齢は、思いやりに満ちた口調で:“秋さん、中山先生から聞きました。あなたの二人のお子さんは北京にいらっしゃるそうですね。恋しいでしょう?”
“恋しいわ、子供を思わない母親がどこにいるでしょう?”この時の秋瑾は母親の顔だ:“暑くなると思い、寒くなればまた思い、正月が近づくとさらに思いが募ります……男の子と女の子、二人ともいい子です!”
“日本に呼び寄せないのですか?中山先生が言っています。一旦武装革命が勃発したら、北京は必ず戦場になります!”

秋瑾は眉をひそめて考え込んで:“ええ……子供たちはまだ小さいので、何とかして紹興の実家へ連れて行ったらどうかと?”
宋慶齢は頷いて:“それもいいかもしれませんね。情勢の進展を見てまた考えましょう。あなた、本当に立派だわ!”
秋瑾は笑って:“あなた、良い方ね、私のことばかり心配してくださるけど、忘れないで、中山先生はまだ海の中よ! さあ、迎えに行かなければ!”
宋慶齢は目を落として時計を見るや:“まあ大変!私ったら、死ななきゃ治らないうっかりだわ……”
“誰だって死んでいいものか、はは!”タオル地の浴衣を着た孫文が二人の前に前に突然現れ、片手で革の旅行カバンをつかんで護衛に渡し、さっき着いたばかりの車のドアを後ろ手で開けてにこやかに:“ご婦人方、どうぞ!”と言う。宋慶齢は秋瑾に先に乗るよう勧めると、振り返ってうっとりと孫文を見つめ:“あなた、寒くないの? 逸山(孫文の名)、天から降ってきたの?”
“そうさ、私はもともと医者だよ、医者と仙人は似たようなものだからね!”孫文は笑いながら宋慶齢と手を取り合って車に乗り込んだ。車はすぐに発車して海辺を離れ、迂回して遠くの山林へと向かった……

(十四)
熱海の景勝地の山林にある簡素で広々とした中華料理店“宏図大飯店”。
作品名:師恩 作家名:芹川維忠