師恩
孫文:“私孫中山がご紹介するまでもなく、この方が、かの有名な「鑑湖女侠」――秋瑾さんです。我が同盟会の偉大な誇りであるばかりでなく、中華女性解放の模範です。お集りの兄弟の皆さん、本日からこの秋瑾女仁侠のもとに入会してください!”
“万歳!”と誰かが大声をあげると、満場が応えた。
嵐のような拍手の中、秋瑾は一歩前に出て、抱拳(片手の拳をもう一方の手で包む形の礼)の礼をすると、講壇の下はにわかに静かになる。秋瑾は厳粛な面持ちで、朗々とした声で詩を一首吟じる。
祖国沈淪感不禁 祖国の沈淪に感ずるを禁じえず
閑来海外尋知音 閑来(かんらい)海外に知音を尋ねる
金?己欠終須補 金甌(きんおう)(祖国)己(すで)に欠け終(つい)に須(すべか)らく補(おぎな)うべし
為国犠牲敢惜身 国の為の犠牲敢(あ)えて身を惜しまんや
講壇の下はしんと静まり返り思索している。皆、しみじみと詩句の意味を味わっている。間を置くことなく、秋瑾は深い思いをこめて:“お集りの炎帝・黄帝の子孫である学徒の皆さん、辮髪があろうとなかろうと、男であろうと女であろうと、同盟会には皆さんの席が用意されています。国辱を雪ぐか否かは、我々時代の英雄にかかっているのです!”
“いいぞ!いいぞ!いいぞ!”拍手が沸き起こり、群衆は熱狂した。
孫中山は満面の笑みを秋瑾に向け、遠くの観衆に向けて高々と手を挙げると、“OK!”の合図を示し……陳天華の先導のもと、護衛に前後を守られつつ、会館の裏口に移動し、無事に退場した。
(十)
日本神奈川県の“箱根”温泉。冬場は格別な賑わいだ。
“芦ノ湖”は古来の火口湖で、周囲を山で囲まれた鏡のような湖である。好天に恵まれると、遠くの“富士山”が湖面に映り込む。
「白扇倒懸東海天(白扇倒(さかしま)に懸かる東海天)」と詠まれる姿は、比類なき詩情あふれる絶景である。
真っ白な雪化粧をした山々を背景に、旅館が軒を並べ、門前は市場のような賑やかさである。厚手の和服を着こんだり、綿入れの肩掛けを羽織った男女の客が、盛んに行き来して、石段を上り下りしている。客の中には若い学生も少なくない。冬休みを利用して温泉へ来て、ひとときの息抜きを楽しもうというのだ。
《天成名湯》という温泉旅館の看板の下は、引きも切らず客が詰め掛け、楽しそうな話し声が絶えない。学生服の客が三々五々連れ立って店に入って行くかと思えば、散歩に出かける男女は色とりどりの思い思いの普段着に着替えている。
十数名の清国留学生が、喜び勇んで“天成名湯”旅館に入ってきた。
陳天華をはじめとする幹事たちは旅館の帳場で宿泊手続きを取りながら、振り返っては仲間たちに部屋番号を伝えている。
“許寿裳は僕と同室、202番だ。”
“周樹人と周作人兄弟は201番。”
“その他は僕の右側、203から順に部屋に入ってください。”
陳天華は手にした部屋の鍵の束をカチャカチャとさせて、楽しそうな大声で“僕について来て――!”と叫ぶ。
“よし、よし。道中疲れたから、温泉に浸かるとしよう!”皆は歓声を上げてそれぞれに陳天華の後に続いた……
尾根を一筋隔てた東向きの傾斜地に、初雪でところどころ白く飾られた常緑樹に囲まれた豪華な温泉迎賓館が建っている。
立派で堂々たる《風月館》門下の庭園は実に広々としている。数十の大型人力車が、次々と入ってくるが、降りてくるのは清国の官僚と随行員だ。同伴してきた日本政府の外務省の役人たちは、前後で手際よく世話をしている。
少し離れた木陰に、数名私服の係員が立っている。そのうちの二人は、東京留学生会館の集会でも、会館の外に現れた密偵だ。その人影は温泉の柔らかな風情をにわかに硬直させ、賓客をもてなす雰囲気には馴染まない。
日清両国の役人たちは相次いで広々とした明るい応接間に入り、主客がそれぞれ席に着いた。礼儀が尽くされ、こまごました作法やしきたりには一点の手落ちもない……。
一人の清国官僚は、ほっそりとした面長で、首にかけた“朝珠(清代、五品以上の官吏の首に付けた珊瑚や瑪瑙や琥珀でできたひとつなぎの玉)”も特別に長く、左右の官僚に比べても、高い官位であることがわかる。この官僚が感慨深げに発言する:“いやはや!この度幸いにも帰国を訪れ、このような歓待を受け、感慨無量でございます。これで、もし我が国の留学生が本分を越え、反乱を企みさえしなければ貴国もわが国も共に無駄な時間を費やすこともありませんのに。このようなゆったりと静かな保養地で、琴・囲碁・書・画などの話題に勤(いそ)しめますものを――”
日本の役人は、すぐにその意味をくみ取り、“わかっております、わかっております! 貴国の留学生取り締まりの一件、大筋で話し合いがついております。あとは合意書を調印するだけです。ですから、本日は琴・囲碁・書・画を語り合い、美しい自然を楽しみましょう……はは!”
側近がその意を了解し、手を打って合図すると、屏風の後ろからたちまち芸者たちが現れる。あっという間に、清国の官僚たちの眼前で、華やかに着飾った女たちの、歌や踊りが繰り広げられた――
(十一)
“天成名湯”の客間の廊下では、とっくに日本式の浴衣に着替えた清国留学生たちが、お互いの部屋を行ったり来たりして、頻繁に足音を立てていた。
203号室では、周樹人と周作人兄弟が向かい合って座っている。二人の間の畳に置かれた座卓の上にはいっぱいに原稿が積まれている。
周樹人:“君は本領を発揮して、《域外小説集》の翻訳を急いで進めてくれ給えよ!”
周作人:“兄さん、安心してください。鋭意努力しますから。温泉に浸かる暇も惜しんで……”
周樹人は慌てて:“いや! 温泉は温泉、よくよく楽しみなさい、そのうえで文章もうまく仕上げなさい。近頃の世相を見るにつけ、海外の新しい風を借りて、国民の視野を開く必要がある。このように内外が融合すれば、広々とした天地が広がるのだから!”
周作人は心から承服して:“兄さんの言うとおりだ!ただ、出版の手続きが煩雑で、経費にも限りがあるからなあ……”と答える。
“感心だね!君たち兄弟は、どうしてそんなに勉強熱心なんだ?”陳天華が戸を開けて入ってくると、大声で“冬休みで来ているんだ、先ずは温泉に入ろう!” 後ろについて来た許寿裳やその他の留学生も続いて入って来て小さな部屋がいっぱいになった。
許寿裳も大いに興奮した様子で:“そうとも!温泉に浸かれば、みんな裸の付き合いだ、まさに「肝胆相照らす」ってやつさ…はは!”
“行こう!行こう――”愉快な気持ちで一つとなった学生たちは、押し合いへし合い部屋を飛び出し、廊下を走っていく。トントントンという足音が庭にも届くほどだ。
笑い声や人影、輝く瞳が温泉の乳白色の湯気に溶けていく……
明かりが光輝く迎賓温泉“風月館”。
優雅な客間に軽やかで滑らかな音楽が流れ、芸者が軽やかに舞を舞っている。