師恩
先頭の三人は、周樹人とその片手に引かれた弟周作人ともう一方の手に引かれた親友許寿裳で、皆を率いて胸を張って闊歩している。
“ところで、僕たちはこれからどこへ行くんだ?”周樹人はふと気づいてこう尋ねた。
“今日は、留学生会館で会合があって、孫文先生を歓迎する講演会があるんだ!”許寿裳は非常に興奮して答える。
“孫文?日本に亡命した孫中山先生と言えば、並外れた度胸と見識の持ち主!”周作人も敬服の意を示す。
“それなら、急がなければ、絶対遅刻できない!”周樹人はすぐさま歩調を速めて前進し、帽子を取って振り回し、後ろの者たちを促す。
後ろの列の清国留学生はほとんどてっぺんが高く盛り上がった帽子を被っていて、その様子が滑稽なので、しばしば通りすがりの人に振り返って見られたり、失笑を買ったりする。
(九)
東京留学生会館。清国の学徒が列をなして入っていく。
会館の入り口から少し離れた街角に、日本の遊び人風に装った二人の密偵が、行ったり来たりして、周りに目を配っている……
広々とした応接広間には、学生帽を被った清国留学生がひしめき合い、三々五々グループになって小声で話し合っている。
中国服の秋瑾はいかにも江南名家の令嬢といった風情で学生の中で特に目を引く存在だ。彼女の周りには陳天華、許寿裳と周兄弟?が立っていて、互いに挨拶を交わしている。
秋瑾が周兄弟に親し気に問いかける:“豫才さん、あなたはずっと仙台で医学を学んでおられますが、この度弟さんは初めていらしたばかり、どんなお世話をして差し上げるべきでしょうか?”
周樹人は弟を指さし笑って答える:“なあに!こいつはね、毎日何か読むべき良書さえあれば、他のことはとんと気にしないんですよ!”
許寿裳は鼻に皺を寄せて:“僕にいわせりゃ、本の虫という点においては、兄も弟も似たようなもので、どちらがどちらの世話を焼くんだか? はは……”と言う。
“孫文先生ご到着――!”入口の方から大声でこう叫ぶのが聞こえた。
皆が期待の目を向けると、孫中山が晴れやかな笑顔で大広間に入って来るのが見える。その左右には屈強そうな大男が控え、用心深く前後を警護している。
留学生たちは歓声を上げて駆け寄っていき、孫文先生とお付きの人たちを広間の中心の講壇に案内し……後ろの扉がしっかりと閉じられた。
正門の外では二人の密偵が、ひとしきりひそひそと言葉を交わす。一人はさっと駆け出してどこかへ行ってしまい、もう一人はもとの場所にとどまってゆっくり行ったり来たりしている。 行ったり来たりしている男が突然足を止めて耳をそばだてる。どうやらかすかに聞こえる拍手の音が聞こえたようだ……会館の周りの通りは、人と車が往来し、いつもと変わらない様子だ。
正門の中は、熱気に沸き返っている。
次々に沸き起こる拍手がしばし収まると、孫中山は大きな声で:“同胞の皆さん!我々は皆炎帝と黄帝の子孫ですから、わたくし孫文、率直に申し上げます――、ご覧の通り私のそばには二人の護衛がいます。これは致し方ないことなのです。 清朝政府は総力を尽くし、至る所で私を逮捕しようとし、甚だしきに至っては刺客を遣わして暗殺しようとしています……しかし、私は千万の同胞と共に自由と民主を勝ち取るため、万一に備え、力を蓄えざるを得ません。同胞の皆さん!学生の皆さん! 良心に誓って、同意していただけますか?”
“その通り!!!”満場の観衆は叫び声と拍手で応えた。この様子を見て孫中山が二人の護衛にちょっと目配せをすると:一人はすぐに正門の外へと向かい、一人は少し後ろに下がったところに留まった。
孫中山は続けて:“皆さん、ありがとうございます! ですから私は名を「中山」と改め、日本の社会に入り、日本の規範に合わせて行動しています。それはまさにここにお集まりの多くの学生の皆さんが、祖国に報いるため一心に海外に学んでおられるのと同じです。しかし――しかしながら、清国は腐敗にまみれていく一方で、国土は破壊されています。私たちは今の状況に甘んじておられましょうか? いや――、決してそうではありません! わたしたちこそ海外に身を置く自由を活かし、団結し、力を合わせ、人々に呼びかけなければなりません――” 孫中山は少し間をおいて、周りを見回すと、声を高くして叫ぶ:“帝王のを追い払って中華を取り戻せ!”
“帝王を追い払って中華を取り戻せ!”皆の感情が高まる中、数人の学生はその場で帽子を脱ぎ、長い辮髪を下ろして、慟哭して思いを訴えた……。ある者は思い切ってこう叫ぶ:“こんな豚のしっぽは切ってしまえ――”“こんな邪魔者はいらない!”“誰かナイフを持っていないか?”
“帝王を追い払って中華を取り戻す”
秋瑾は、その様子を見て、即座に手提げから常に携帯している短刀を取り出し、辮髪を切ろうとしている学生に無言で手渡した。その一方で、会館の厨房の刃物まで持ち出され……辮髪を切る場面は大いに人々の士気を振るわせた。
“御覧なさい! 中山先生の演説はなんと魅力的なんでしょう――” 秋瑾はいたく感動して、周りを見回し、きっぱりと言い切った:“切られるべき辮髪は、とうとう皆自分から切ることになった!”
周樹人はそんな秋瑾にそっと言う:“よかった、私たち兄弟は早くから切っていたから、今日は気が楽です……” 周作人も嬉しそうに、そばでおどけた顔をした。
陳天華はと言えば、飛び跳ねるように会場を回ってやって来て、興奮冷めやらず:“愉快!愉快! こんな日が来るのをずっと待っていたんだ!”と叫んだ。
東京留学生会館の正門の外。外へ出て行った孫中山の護衛の一人は、即座に上着を裏返しに着て、帽子のつばを低く下ろすと、全く別人のように――やくざっぽく、煙草をくわえて、何食わぬ様子であの留守番役の密偵の前に歩いて行った。二人は互いに軽く挨拶を交わし、意気投合した様子だ。 どうもこの護衛、裏社会に通じているようで、なかなかのやり手らしい。
護衛は悠然と煙草をくわえてあらぬ方向へ行ってしまった……ところが本当は、回り道をして会館の裏門に行き、周りに人がいないのを用心深く見極めると、こっそり中へもぐりこんだ。
会館の中は相変わらず満場の人々の熱気が漲っていた。
“同胞の皆さん!”孫中山は再び朗々とよく通る声をあげて:“皆さんに嬉しい報告があります、長きにわたる宿願だった「中国同盟会日本関東支部」が本日正式に成立しました。皆さんの参加を心より歓迎します……そうだ、我が同盟会の秋瑾女史! どうぞこちらへいらしてください!”と言うと、講壇の下で熱烈な拍手が沸き起こる。この時、とっくに合流していた二人の護衛は、人だかりを押し分けそろって中山先生の前にやってくると、素早く耳打ちして報告する。中山先生はしきりに頷いて、泰然自若としている。
秋瑾がゆっくりと進み出て、講壇に上ろうとすると、孫中山が手を差し伸べて迎え、講壇に引き上げる。二人は肩を並べ、軒昂たる気概に満ちた様子で満場の観衆に対面する。