短編集23(過去作品)
心の隅を通り抜ける風があるとすれば、それが私に何かを囁いたのかも知れない。
あくまでも漠然としたことなので、今ならプラス思考に戻すことができるはずだ。
そう感じた時に目の前に現れた女性、それが恭子だった。いつもであれば馴れ馴れしさに少し抵抗感を感じるところだが、その日は違っていた。私にとっての救世主が現われたような気がして、自ら微笑んでいるのが分かる。
――ひょっとして引きつった笑顔では?
一抹の不安はあるが、返ってくる恭子の笑顔は屈託のないものだった。
――前から知っていたような気がする――
恭子に対する第一印象だったが、それは時間が経つうちに次第に強まってくるものだ。
それが包容力のある女性として私には写り、今陥りそうになっている鬱状態から引き戻してくれそうな感じがする。嫌な予感を払拭してくれるかも知れないと……。
「私いつも火曜日になったらここに来るんです」
恭子は呟くように言い放った。少し静かな口調ではあるが、しっかりとしている。私の目を捉えて離さないその視線が、唇を見ることで、しっかりと聞こえるのかも知れない。
「火曜日だけなんですか? なぜ?」
私、お花を習っているのですが、それが火曜日なんです。それ以外ではこのあたりに来ることはないんですよ。だから、彼氏とは毎週火曜日にここで待ち合わせることにしていたんです。でも、もう彼とはこれで終わりです。連絡もなくすっぽかしたのですから」
寂しそうな表情をするかと思いきや、却ってサバサバした表情に見えるのは、まんざら強がりばかりではないように感じる。
「そんな簡単にあきらめてもいいの?」
余計なお世話だと思いながら聞いてしまっていた。聞いた後に「しまった」と感じたが、
後のまつりである。
「ええ、いいんですの。もう終わりのような予感がしてましたから」
ここで初めて暗い表情を浮かべた。その中に悔しそうな表情が浮かんでいるように感じるのは気のせいであろうか。
彼氏に女ができた?
それを薄々感じていて、彼女も覚悟していたと考えれば、その表情の説明はつく。それならば、サバサバした表情と悔しそうな表情が交互に来ても不思議ではない。
「ここでまた新しい出会いを発見しましたから」
恭子はそういって私を見つめる。思わず照れ隠しのような引きつった笑いが、顔に浮かんでいることだろう。
暗黙の了解であった。
「いきなりですか?」
「ええ、いけませんか?」
「そうではないけど」
「私はあなたがいつも駅から出てくるところを見てましたのよ」
さすがにその言葉には驚いた。確かに火曜日といえば、他の曜日にくらべると帰りが早い日が多かった。プロジェクトで一緒に仕事をする人が火曜日病院通いするということで、早退するからだ。しかしそれでも、夜九時を回ってからでないと、ここには現われないので、その頃にここから意識して駅構内からはじき出される私を見つめていたのだろうか。
さすがにその時間帯になると、駅から出てくる人も疎らになっていることだろう。
「いや、お恥ずかしい。さぞかしくたびれた様子だったでしょう?」
見られていたというのは複雑な思いである。特に知らなかったとはいえ、くたびれた雰囲気が全身から滲み出ていたはずである。
「そんなことありませんわ。でも、おかげでずっと以前からあなたと知り合いだったような気がしますの」
見つめられていたから、以前から知り合いだったような気がするのだろうか?
いや、それだけではないような気がする。確かに恭子の言うとおり、ずっと見つめられていたということであれば、視線を感じたことがあったような気がする。目を瞑って思い起こせば、浮かんでくるのはネオンサインに彩られた駅前ロータリーの光景、疲れている目には余計に眩しく感じる。この喫茶店が気になっていたのは、無意識に視線を感じていたからかも知れない。
どう考えても恭子と佐緒里には共通点はない。
物静かであったが、時々突飛なことを言い出し、私を驚かせることがあった佐緒里、それに対して、突飛なインパクトを与え「天然」を思わせる恭子であるが、何か包容力のような暖かさを感じることができる恭子。どちらが私に似合っているとは言いがたいのだろうが、ここで恭子と知り合ったことに、何か運命的なものを感じる。
きっと恭子も運命的なものを感じていることだろう。
「あなたには父親のような雰囲気を感じるの。一度お話がしたかったんですのよ」
そういって、目をトロンとさせている。しかし、その表情はどこか寂しそうで、最初その原因がどこにあるのか見当もつかなかった。
「そうですか、どんなお父さんなのですか?」
「とても優しかったんです。でも、私が高校の頃グレて、家を飛び出してしまったものですから、父にはかなりの精神的不安を与えました」
いくら以前から私のことを遠巻きに見ていたからといって、初対面の私に身の上話を始めた彼女だったが、なぜか違和感を感じない。恭子の表情を見ているうちに、私も想像力を膨らませて聞き入っていたが、想像していることに、ほとんど間違いなさそうな雰囲気だ。
恭子に感じた思いは、
――薄幸の美女――
という印象である。極度の緊張からか、声が裏返っているが、語り口調はしっかりしたものである。それだけ、芯のしっかりした女性であることは窺える。
――おかあさん――
彼女を見ていて前から知っていたような親近感を覚えていたのは、母親のイメージに似ているからだ。しかもそれは私が就職した時、
「寂しくなるわ」
という一言を言った時の面影を感じるのだ。恭子に感じる包容力、それは母親に包まれているような感じなのかも知れない。
生まれる前に浸かっていたはずの羊水、もちろん覚えているはずないのだが、こんな気分だったのではないかと勝手に想像できるほど、私を見つめる恭子から離すことのできない視線から身体が宙に浮くような感じさせしてくる。
恭子は私を見て父親を思い出しているようだ。私はそんな恭子を見て、母親を思い出す。今の私に孤独感はない。目の前にいるだけで、包まれている気分になれる恭子がいるだけで満足だった。
――今なら取り返すことができるかも?
漠然と感じたが、それが何なのか、すぐには分からなかった。いや、分かっていたのかも知れない。しかし、普段の打算的な気持ちもない今は、ただ、羊水に浸かっている気持ちに浸っていたいだけだった。
佐緒里に感じた突然の別れ、今でも好きだと思っていたのに、不思議でたまらなかった。佐緒里から言い出したわけでもない。私から言い出したわけでもない。ただ、
「遠距離恋愛は耐えられない」
という佐緒里の一言がすべてを表わしていたような気がする。それが本当の理由かどうかは分からない。ただ、引き下がらせるには十分な説得力を持っていたかも知れない。本当に佐緒里のことを愛していたのなら、引き止めたかも知れないが、引き止めなかったということは本当に愛していたわけではないのだろう。
しかもその時に浮かんだ顔というのが、寂しそうな母親の顔だったのだ。それだけでも自分の中での本当の愛情は別のところにあることを証明したようなものだった。
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次