短編集23(過去作品)
だが反面、変なところで正義感が強いのか、人が気にしないことを気にしてイライラしてしまうこともあった。喫煙禁止の場所での喫煙、電車内での携帯電話の使用など、なかなか法律で取り締まることができず、モラルの問題となっていることが、そういう連中を増徴させるという怒りが抑えられないのである。
何度となく注意してみたりしたが、相手に睨まれたりするだけで、あまり得な役回りではない。まわりの人も当然だと思っているくせに、目は他人事だ。
――お前らだって感じてるくせに――
まわりに対する不信感も募ってくる。
その頃からであろうか、少し自分に意見があっても表に出さなくなってしまった。
――やっぱり二重人格なんだ――
プラス思考でありながら、一旦自分のことで波風を感じると、簡単に立ち直れない自分も感じていた。それは大学を卒業する頃になって感じたことであり、きっと就職難の時代への不安からもそういう気持ちにさせたのだろう。そんなことから、自分が、
――二重人格ではないか――
などと感じるようになったのであって、実際に二重人格を感じ始めると、自分の性格で納得いかなかった部分が、少しずつ分かるようになってきた。
腹を立てると、すぐに自分に怯えてしまう。まわりから何かに怯えているように見えるのは、実は自分に怯えているのだ。それも、最近になって分かったことである。就職が決まってからの私は、少し自信家であることに自覚を持ち始めていた。
佐緒里と別れたのは、就職が機だったというよりも、私の自信家としての性格が戻ってきたからなのかも知れない。遠距離恋愛というのは、半分口実だったような気がする。自信家の部分が戻ってきた私は、佐緒里だけの私ではなくなってしまうと感じたのだろう。
佐緒里と別れてから、私は誰とも付き合っていない。別れる時は、
――女なんて星の数ほどいるから――
とまで思っていたのだが、私にとって、佐緒里の存在が大きかったことを知らなかったからだ。
最近まで、「恋人がほしい」などとまったく感じらことはなかった。それだけ仕事も忙しかった。
しかし、少し落ち着いたことで我に返ったのも事実である。
――寂しい――
という気持ちが表に出る時もあれば、気持ちに余裕を持っている自分を感じることもある。寂しいと思っている時というのは得てして気持ちに余裕のない時が多く、そういう意味で、感情が二つ存在していることに間違いはないようだ。
どちらも自分なのだという意識がある。もちろん気持ちに余裕のある時は、寂しいと思っている自分を否定してみたくなるし、寂しいと感じている時に、気持ちに余裕など感じられない。その日の私は気持ちに余裕があるのかも知れない。
恭子という女性、私を誘っているように見えるのだが、一線を引いて見ている自分を感じることができる。ある意味、気持ちに余裕があるからかも知れないが、相手が私を誘いながらでも、何か警戒心を持っている姿を感じることがある。ただ寂しいというだけで気持ちに余裕がなかったら、そんなことは感じなかっただろう。
――包容力を感じる女性――
これが恭子に感じた思いである。
佐緒里に対してもそうだったが、男性が常にリーダーシップを取り、リードしていくものだと思っていた私にとって初めて感じたことである。
――いや、本当に初めて?
思わず眉が寄ったのを感じた。それを見て恭子がどう思ったか分からないが、私を見つめる目は、何でも知りたい好奇心に満ち溢れたような潤んだ目をしているように見える。
佐緒里と別れてから、転属した先では一人暮らしが続いていた。佐緒里のことを夢に見たりして思い出すこともしばしば、どうしても楽しかった頃の思い出が、頭を離れることはない。
最近の私は、寂しいという思いの他に、孤独というものを感じている。
しかしその孤独をいやなものだと感じないのはなぜだろう?
寂しさに感覚が麻痺してしまって、孤独を孤独とも感じないのだろうか。いや、孤独だからこそできることもあるような気がしていた。
煩わしいことが嫌いなくせに、人の相談ごとなどにはよく乗ってあげていた。相談を受けて、それに答えてあげるだけで喜ばれる。それだけで満足だった。
――いざとなれば他人事――
そんな気持ちがないわけではない。ある意味無責任で、卑怯といえば卑怯である。
――人の喜ぶ顔が見たい――
と思うのは、そんな気持ちからかも知れない。実際他人事と思わなければ、助言などできないだろうし、助言にしても、自分の体験に基づかないとできるものでもない。相手も藁にもすがりたい気持ちでいるのだから、いくら他人事とはいえ、体験に基づいた助言がありがたくないわけもないだろう。
ただ、いくら体験に基づいているとはいえ、
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」
のたとえではないが、相手のその時の気持ちなど分かるはずもない。いくら親身になろうとも、他人事は他人事である。
私も同じ思いをしていた時に人に相談したことがある。あまり言いたくないこともあるのだろうが、相談せずにはいられない性格なのだ。聞いてもらうだけでも、気が紛れるというもので、端から最善の策など求めているものではない。
そういう時の相談は、あまりたくさんの人にするものではない。意見は人それぞれ違うもので、まともに聞いているとそれだけで考えが錯綜してしまう。気心の知れた相手か、どうしても聞き上手の人を選んでしまうのは、本能の成せる業ではなかろうか。
そういう意味でも、相談を受けるというのは嬉しいことだ。気心の知れた相手ということであっても、聞き上手ということであっても、きっと私を信用してくれているから話すに違いないからだ。
だが、時々そんな自分が嫌になる時がある。人が考えているほど自分は聖人君子でもなく、時々陥る鬱状態による自己嫌悪とのギャップが激しいのもその原因になっている。
普段なら人と一緒にいれば楽しく、そして嫌なことも忘れられるのだが、鬱状態に陥れば、相手の顔から思わず目を逸らしている自分に気付く。
微笑んでくれれば無意識に笑顔で返している自分からは想像もできない。まるで別人になっているのだ。
そんな時に感じる自分の一番嫌な性格は、「打算的」なところがあることだ。物事をすぐに杓子定規に考え、ひいては人間関係にまで損得勘定による計算をしている自分がいることである。それだけに余計、自己嫌悪に陥った時に、人間関係が嫌になるのだろう。
一番孤独を感じる時だ。人と話したいという気持ちがまったくないわけではないが、一人で考える時間があるということはある意味いいことなのかも知れない。それは鬱状態が治ってからいつものプラス思考の考え方が戻ってきて思うことなのだが、実際は孤独の中で考えていたことが役に立つことが無きにしもあらずだった。
――今はその時に似ているかも知れない――
鬱状態に陥る時に、予感めいたものがある。口元や背中が何となくゾクゾクとしてきて、
「いよいよだ」
と思うのであるが、特に仕事が一段落して気が抜けたようになっている今、その兆候に近いとも言える。
――何か嫌な予感がする――
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次