短編集23(過去作品)
次第に落ち着きを取り戻していく彼女が分かる。先ほどまで潤んでいた目が少しトロンとしてきていて、虚空を見つめているようにさえ思える。アイスコーヒーの冷たさが、さぞや気持ちいいことであろう。
夏の時期でも私はホットコーヒーを注文することが多い。確かに美味しいアイスコーヒーを出す店もあるのだが、今まで飲んだアイスコーヒーはほとんどが失敗だった。アイスコーヒー用の豆を使っていないのではないかと思えるほどで、客をバカにしていると感じてしまう。
「喫茶店って、出会いの場でもあるんですよね」
女性がそう言って下を向きながら呟いた。最初一人言かと思ったが、次第に上げてくる顔が、上目遣いで私を見つめている。
「ええ、そうですね」
その目に妖艶な雰囲気を感じたのは、唇が、怪しく歪んでいるのが見えたからであろうか。
その口元には艶やかに塗られた真っ赤な口紅が光っている。今にも舌舐めずりしそうな唇に、視線は止まってしまった。
「私、名前を恭子といいます。実は今日ここで彼氏と待ち合わせしていたんですけど、すっぽかされちゃいました」
今度は肩を窄めながら上げる仕草をして私を見つめる。まるで子供のようなその仕草に先ほどの妖艶さを感じることはできない。
――一体、どちらが本当の恭子なんだろう?
それとも女というのは一瞬にして自分の雰囲気を変えることができる生き物なのだろうか。私が以前付き合ったことのある女性には少なくともなかった。いつも子供っぽい仕草ばかりだが、とても静かな雰囲気を持った女性である。
前に付き合っていた女性、名前を佐緒里と言った。
まだ大学生の頃で、同じクラスの女性だった。知り合った当時は大学に入学したばかりで、まだ高校生の雰囲気の抜けていなかった二人だったのかも知れない。
いつも私がリードしていたような仲だった。それがしっくりくるアベックだとお互いに思っていたし、男の方がリーダーシップを取るのがアベックとして自然だとも感じていた。それは佐緒里にしても同じだったに違いない。
どちらかというと無口なタイプの佐緒里は、私以外の人とあまり話をしなかった。私とはいつもバカな話をしているので、他の人とも会話になっていると最初は錯覚していたが、特に女性友達がほとんどいないことを知ったのは、付き合い始めてかなり経ってからのことである。
「いつも俺ばかりと一緒にいないで、たまには女友達との約束を優先してもいいんだぜ」
どんな表情をするだろうと思いながら聞いてみた。すると案の定、寂しそうな表情を浮かべ、
「いいの、私にはあなたがいるから……」
男冥利に尽きる返事である。そこからますます佐緒里が好きになっていったことは間違いない。
佐緒里と話をしていて一番印象に残った言葉があった。無口なるがゆえに、私と話をしている時、あまり真面目な話をしない佐緒里がいう。真面目顔での言葉には、さすがにドキッとさせられることが多かった。
あれは私が佐緒里の清潔さや綺麗なところに参っていた頃のこと、
「君は綺麗だ」
何度となく、そう口にしていた。だが最初の頃こそ、照れ笑いをするだけで何も言い返さなかった佐緒里が、
「私は綺麗と言われたいんじゃないの。ただ、幸せになりたいだけ……」
真面目な顔をして言った。その表情は寂しさを帯びていて、私が最初にその言葉の意味が分からなかったことが原因だと分かったのは、かなり経ってからのことであった。
女心の難しさというのだろうか。それとも安易に「綺麗」だという言葉を口にしたことへの戒めであろうか。
「女は綺麗といわれて悪い気はしないさ」
プレイボウイとして有名ではあるが、言葉にはなぜか説得力のある友達がそんなことを言っていた。確かにそうかも知れない。しかし、付き合い始める前ならそれでもいいのかも知れないが、付き合い始めて真面目な話もついてくると、「綺麗」という言葉は却って、
「余計なこと」になってしまうのだろう。
もう一度考え直してみた。
私が佐緒里の立場でも同じことを言ったかも知れない。言いたいことは後者なのだ。
「幸せになりたい」
この言葉がきっと言いたかったのだろう。
わざわざ口に出して言うということは、それだけ「信じられない」のかも知れない。私を信じられないというよりも、口に出す「言葉」が信じられないということなのだろう。自分で触ったり、感じたりすることだけが真実だと思う時期は、人を好きになれば避けて通れない道ではなかろうか。
当時の私はまだ佐緒里の言葉を全面的に信じていた。ひょっとして、本当に自分が佐緒里のことを愛しているのかどうか分からないと疑問に思った時があるとすれば、その時が最初だったのかも知れない。
それからの私は言葉には気をつけるようになった。相変わらずおどけた話をしていたが、真面目な話を時々は織り交ぜるようになっていた。私が初めて佐緒里を抱いたのは、それからすぐのことであった。
佐緒里は待っていたかのように思える。私の言葉を信じられないかも知れないと思いながらだったのだが、私の腕の中で見せる従順な佐緒里は、今までの佐緒里から信じられないものだった。まったくの無防備で、身体だけでなく心も預けてくれているように思える。そんな佐緒里をいとおしいと感じたのはいうまでもない。
さすがにその時だけは「綺麗だ」という言葉を口にした。佐緒里もそれを素直に喜んでくれていたようで、きっと、身体と心が一緒になった瞬間の言葉は、相手を貫いた心で覆いつくされるのだろう。女性として「満たされた」という気持ち、男性として「包まれた」という気持ち、それが一番自然な気持ちを引き出しているのではないだろうか。
少なくとも私にはその瞬間、幸せがあった。佐緒里にもあったことを願いたいのだが、少なくとも満たされたことへの開放感が彼女にはあったような気がする。明らかに私に対する態度が、翌日から変わっていた。そこには「従順」という言葉がふさわしい、いわゆる「三歩下がったところにいる人」であった。
そんな佐緒里を私はこよなく愛した。佐緒里以外の女性に見向きもしないほど、惚れていたのである。最初の頃には佐緒里からのアクションで、そのうち私も本気になる。お互い相思相愛だったのだ。
しかしそんな時期が長くは続くものではないらしい。
「遠距離恋愛は続かないわ」
そういって私から去っていった佐緒里……。理由は本当にそれだけであろうか?
確かに遠距離恋愛を成就させるのは難しい。
「私はそばにいてくれる人でないとダメみたい」
その言葉に嘘はないだろう。私との相思相愛は、一緒にいてこそ成立するのではなかろうか。
一緒にいる時にあまり会話がなくても、お互いの気持ちは分かり合えていたつもりである。それは一緒にいて相手の顔色や、手を繋いでいて感じる相手の体温だったり、ちょっとした素振りで気持ちを感じあえたからだ。しかし、それができないとすると、後に残るのは不安だけである。佐緒里にはそれが耐えられないのだろう。
元々言葉を信じていなかった佐緒里、しかし従順な佐緒里を信じきっていた私、ひょっとしてこんな別れが来るのでは? と感じていたのかも知れない。
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次