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短編集23(過去作品)

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 そう言って、女の子がお冷とメニューを持ってきてくれなかったら、ずっと表を見続けていたかも知れない。
 メニューを受け取ると、ゆっくりと見えることにした。何と言っても洋菓子屋さんの経営する喫茶店である、ケーキが美味しいと思ったのも無理のないことだ。
「それでは、ごゆっくり」
 と言わんばかりに会釈をし、女の子は下がっていった。美味しそうなケーキが並んでいる中、今日はチョコレートの気分とばかりに、決めたメニューはザッハトルテである。
 注文した後、少し店内を見渡してみた。
 店内も最初に入った時に感じた広さを、もう感じることはできなかった。最初に感じたのが、より一層の広さだっただけに、今感じている広さが本当の広さなのだろう。
 明るさも慣れて来たのか、さほどでもない。たぶん自分が気分的に落ち着いてきたからに違いない。呼吸も整ってきて、ゆっくり見ることができるからである。
 そうなると興味は表の景色だった。本当は夜よりも早朝の方が面白いのかも知れない。喧騒とした朝の雰囲気というのは、以前から一度、遠くから見てみたいと思っていたからである。
 歩いていて感じるスピードの速さは、人の流れという群集心理の成せる業であって、まわりのスピードがゆっくりであれば、自分も自然とゆっくりになるはずである。疲れ方もそれほど変わらないはずで、その理由は距離が同じだというただそれだけに留まらないだろう。
 今目の当たりにしている電車が到着し、押し出されるように流れ出る人の群れに力は感じない。確かに朝の喧騒とした雰囲気に中に真の力が感じられるかと言われれば、ノーと答えるだろう。朝は士気を高めて行動しないといけないほどスッキリしていないものかも知れない。
 少なくとも自分はそうである。会社に着けば嫌でも仕事モードになるのだが、通勤途中というのはそこまではなく、ただ、同じような群衆にもまれるようにして過ごす毎朝に、嫌気がさすまで感じないほど、感覚が麻痺していることだろう。
――毎日のあの流れの中に私はいるんだ――
 そう感じていると、実に不思議な気がした。今まで何となく感じてはいた「働きバチ」のイメージ、しかし、まさかあそこまで皆一様に暗い表情をしていようとは思ってもみなかった。
 頭を垂れるか角度、肩の落ち具合、ほとんど一緒に見える。他人と同じことをするのが好きではない自分がいつもあの中にいるのだと思うと、それだけで自己嫌悪に陥ってしまいそうだ。
――しかし、明日からは違うだろうよ――
 自分に言い聞かせてみる。何と言っても仕事は一段落しているのだ。そう思うことで、少しずつリラックスしている自分に気付いた。
 ホッと胸を撫で下ろす。今まで感じていた自己嫌悪がほぐれていき、目の前の光景もいつしか他人事のように思えるようになった。
――サラリーマンだなんて感じたこともなかったな――
 それだけやりがいのあるプロジェクトであった。
 やったらやっただけの評価をしてくれる会社である。仕事の節目の慰労ということで、会社のお金で食事会を催してくれたこともあったくらいで、それだけでも、この不況の時代、会社の意気込みを感じることができ、そのままやりがいに繋げることができた。他の会社ではなかなかそうもいかないはずである。
 中小企業ということで、その席には取締役も来ていた。一人一人に声を掛け、いかにもやる気を起こさせる環境が私には嬉しかったのだ。そのプロジェクトが一段落したことは私にとってどういう影響があるのか、考えなければならないと思っている。
 もし何も考えずにいると、やりがいというものがなくなってしまって、何をしていいか分からずにカルチャーショックのように陥るかも知れない。会社においてもそうであろうが、少なくとも自分のことは自分でコントロールしなければならないだろう。元々読書の好きな私は、その空いた時間で本を読もうと思っている。プロジェクトの仕事をしている時でも、一段落すれば読書に勤しみたいと、漠然とではあるが考えていた。息抜きの時間に、本屋で見る本の背が思い浮かんだりしたものだった。
 読みたい本は、以前から物色していた。プロジェクトが始める前に購入していた本が、まだ手付かずで部屋の本棚に並んでいる。今日も一冊カバンに忍ばせて会社に持って行ったので、席に座るやいなや、カバンから文庫本は取り出していた。
 景色を一通り堪能することができると、私は本を開いた。まったく読んでいなかった本なので、新たな気持ちで読み始めることができる。内容はミステリーで、探偵モノの推理小説としては最近人気が出始めた本だった。ドラマ化されたりしていることもあって、本屋では、人気本コーナーに置かれていたものだ。
 以前からミステリーは好きだった。読み始めると嵌まって読んでしまうことが多く、たぶん一番早く読めるジャンルの本であろう。時々描写部分を飛ばして、セリフだけを読んでいる自分に後から気付いて驚いてしまうことがあるくらいだ。
 楽しみなのは、最初に本の表紙を開く時である。この時が一番本を読むんだという気持ちの高揚を感じる時で、それだけ読み始めるといつも本の世界に引き込まれてしまっている。
 しかし、今日は少し違っていた。
 本を読み始めても集中はしているのだが、我に返る時があるようだ。ふっと我に返ると正面を向いていて、そのまま、まわりの景色を一望する。今までにはあまりなかったことだ。
「ふぅ」
 思わず溜息をついている。
 姿勢が悪いというわけではないはずなのに、なぜか肩が凝っている。本を読むために少し下を向き加減になっていることが首に負担を掛けるのか、首から肩にかけて、凝っているような感じなのである。
――おかしいな、今までこんなこと感じたことなかったのに――
 しばし考えていたが、
――今までのプロジェクトの疲れが一気に来たのかな?
 と思えば納得もいく。ある意味それだけホッとしたというのか、安心感が私の中にあるのだろう。
 本を読んでいて頭を上げると、一瞬自分が今どこにいるのか分からなくなっている。確かに初めて来る喫茶店なので、景色がまだ自分に馴染んでいないこともあるのだろうが、それにしても違和感があるような気がする。
 しかしそれを感じたのは一瞬だった。分かってしまえば、
――何だ、そういうことか――
 と苦笑している自分を感じる。
 ちょうど読んでいる小説のシチュエーションがこの喫茶店の雰囲気に似ているのだ。
 主人公が待ち合わせをしていて、それが駅前の二階に上がっていく喫茶店で、そこでやってくる女性をロータリーの中に探している……。そんなところをプロローグとしたストーリーだったのだ。
――偶然とは面白いものだ――
 だが自分が本を読んで思い浮かべる光景が、今目の前に広がる喫茶店からの風景と、少し違いがあるのだろう。自分では分からないが、一瞬自分のいる場所が分からなくなる現象がそれを証明しているような気がする。
――誰か私の待ち人でもやってくるのだろうか?
 思わず苦笑してしまう。このあたりに自分の知り合いはおらず、待ち人などあろうはずもないからだ。
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次