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短編集23(過去作品)

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母に似た女性


                 母に似た女性

 火曜日という日が特別な日になったのはいつが最初だっただろう?
 最初に恭子と知り合ったあの日が、火曜日だったからだ。
 恭子と知り合った場所、それは駅前の喫茶店だった。そこには今までにも数回行ったことがあり、馴染みになりかかっていた頃で、恭子も時々来ていたらしい。
 私こと、山崎博文は通勤に使っている駅前を今まではあまり利用したことがなかった。会社に入ってから三年経つのだが、それまでは部屋と会社の往復だけで、まわりの環境が気にならなかった。
 気にならなかったというと語弊があるかも知れないが、それだけ仕事に集中していたということの裏返しであり、逆に集中して仕事ができたからこそ、落ち着いてきた仕事を離れても、余裕を持った生活ができるのかも知れない。
 馴染みの店を持ちたいというのは、社会人になる前から考えていたことで、正直大学時代にも、近くの喫茶店を馴染みにしていたこともあった。会社に入ってから転属になり、実家から通うことができなくなってしまったため、もうその店には行けなくなったが、馴染みの店を持ちたいという願望は常に持ち続けていた。
「寂しくなるわ」
 そういって、私を転属地に送り出してくれた母親の顔を思い出すことがある。仕事に対する期待と不安で一杯だった時の母親のその表情が、とても印象的だったことを覚えている。
 大学時代に付き合っていた女性がいるにはいたが、卒業と同時に別れてしまった。私にはまだそれなりに未練はあったのだが、彼女の
「遠距離恋愛は耐えられない」
 の一言に引き下がらずおえなかったのも事実だ。未練があったとはいえ、愛情が少し冷めかけていたこともあってか、比較的スムーズに彼女の気持ちを受け入れられ、現状を理解することができたのだ。
 彼女のことよりもどちらかというと、寂しいといって私を送り出してくれた母親の顔を思い出すことが多い。別にマザコンというわけではないが、私も母親のことを心配する年になったのだと思ったからかも知れない。親の気持ちが分かりかけているのだろうか?
 しかし、仕事に打ち込むことで、寂しさはもちろん、いろいろな感情が麻痺していたのは、いいことだったのか悪いことだったのか……。自分でも分からないでいる。
 仕事が自分にとって何なのかを考えた時、今までの回想シーンが走馬灯のようによみがえるのは、忙しかった仕事が一段落したからかも知れない。
 部屋と仕事場の往復ばかりで、しかも仕事場が出先だったりすると、なかなか駅前でゆっくりするなど考えられなかった。
――駅前はただ通り過ぎるだけのもの――
 として考えたからである。
 まわりを見向きもせずに急ぎ足だった頃、どんな形相をしていたことだろう。きっと前だけを見ていて、まわりにどんな店があるのかすら知らなかったはずだ。だが、最近気になり始めた駅前の喫茶店だけは、一度行ってみたいと思っていたのである。
 名前を「ノアール」というその喫茶店は、洋菓子の店が一階にあり、二階に上がっていくと、そこに喫茶店が広がっているのだ。
 外から見えるところで椅子に座った腰のあたりから上は、全面ガラス張りになっている。下から眺めていると、夜など照明が明るく、さぞかし暖かい雰囲気が醸し出されている。楽しそうに談笑しているOLや学生などが嫌でも目に飛び込んできて、立ち寄りたくなる気持ちに拍車をかけるのだ。
「さあ、仕事も一段落だな」
 プロジェクトで動いているため、グループ内では緊張した雰囲気が滲み出ていたが、そんな中、グループ長となっている部長が伸びをしながらそう言った時、皆のまわりに張り詰めていた緊張が一気に解けたようだった。
 かくいう私も気がつけば伸びをしていて、久しぶりにゆっくりした気分になれた。思わず拳を作って、肩を叩いている自分に気付いたくらいである。
――やっと定時に帰れるな――
 打ち上げするほどまだ完全に仕事が軌道に乗ったわけではないので、ゆっくりとした時間は十分にある。私の頭に真っ先に浮かぶのが喫茶「ノアール」だったことは、最初から分かっていたことかも知れない。
 定時になるまでそれからの一時間が長かったのか短かったのか分からないが、会社を出た瞬間に、会社でのことはすべてと言っていいほど忘れ去っていた。
――どうやって電車に乗って駅まで来たのか分からない――
 いつもと違う感覚である。
 いつもであれば、仕事のことが頭から離れない状態なので集中していないということなのだろうが、今日は同じ注意力散漫でも、少し違っていた。
 焦っていたわけでもなく、いつもであれば会社を離れても、抜けない仕事のことが頭にこびり付いて一杯なはずなのに、今日は気持ちに余裕がありすぎて、いろいろなことが頭を巡っているのだろう。
 それは妄想のようなものかも知れない。無意識に考えていて、考えていることさえ自然すぎて意識がない。しかも次から次へと移り変わっていく妄想に、頭がついていっているかどうかも疑問である。
 それだけ普段仕事以外のことはあまり考えていない。どちらかというと、学生時代は妄想するのが好きで、いろいろなことが頭を巡っていた。その頃は、ある程度意識があったに違いない。自分の考えていることが分かっていたのだ。しかし、今日のように仕事が一段落して、気が抜けたような状態の時には、無意識になっても仕方がないように思える。
 そんな時に最初に思い浮かんだのが、喫茶「ノアール」だったのだ。
 以前から立ち寄ってみたいという思いは、仕事のことで一杯の頭が考えていた。ひときわ目立つ照明と、ガラス越しに見える楽しそうな店の雰囲気に安らぎのようなものを感じていたからで、分かっていながら、店の計略に引っかかってみるのもいいような気がしていた。
 階段を上がる時の気持ちとしては、
「狭い階段だな」
 というのが印象的だった。開放的な表から見える光景に逆らうような、狭い階段に感じた第一印象だった。しかし、考えてみればメインは一階の洋菓子の店なのだ。階段が狭いのも仕方のないことなのだろう。
 階段を上がってやはり最初に気になったのは、大きなガラスの貼ってある窓際の席だった。さすがに、客のほとんどは窓際に点在していて、真ん中あたりの席は疎らだった。
――空いてるかな?
 ゆっくり見渡してみると、窓際の席が一つだけ、うまい具合に空いていた。
 急いでも席が逃げるわけがないのは分かっているのに、私は急いでその席へと向った。よく見ると両側の席の人がタバコを吸う人でないことは、私にとって嬉しかった。禁煙家の私は、会社が禁煙になった時に一番最初に喜んだ一人だったのだ。
 少しうるさめの店内を想像していたが、クラシックのBGMが心地よく聞こえてくるほど静かであった。コーヒーカップの乾いた音が響いているのが印象的だ。想像していたより、店内も明るい。
 目指す席へと一目散に向った私は、思わず表に広がる景色に見入ってしまった。表から見ていると、かなり近くに感じた店内だったが、こうして見下ろしていると、ロータリーも小さく、駅の構内から出てくる人も米粒のように見える。
「いらっしゃいませ」
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次