短編集23(過去作品)
私も読んでいた本の続きを読んでいたが、今日はどうしても隣の男が気になってしまう。
――どんな本を読んでいるのだろう――
一生懸命に読んでいるので、きっと男も本の世界に入っているのだろう。私と同じように話しかけられても、すぐには本の世界から抜けることはできないかも知れない。私もそうなのだ。目が覚めてから意識がハッキリし始めるまでに時間が掛かるように、その間に何かを忘れていっているのだろう。
そのうちに私も本の世界に没頭し始めた。今自分が感じている世界は隣を気にしながら生活をしている主人公を題材にした小説である。小説世界の自分はまさしく主人公になりきっていた。今まで隣の男を垣間見るように気にしていたのだが、今度は隣から気にされているようで、却って本の世界に陶酔していったのかも知れない。
――おや?
どれくらいの間、私は本に没頭していたのだろう。
気がつけば隣の男はもういないではないか。まわりを見渡すと男がレジでお金を払っているところだった。いつもであれば、話が終わって男が帰るところなど気にしたことはない。やはり今日はいつもと少し勝手が違うのだ。
何となく戸惑っている自分を感じる。男を追いかけてみたいという衝動に駆られたのは、本当にその時が初めてだったのだろうか?
レシートを持って、レジへと急いでいる自分がいるのだ。
急いで表に出ると、そこには街灯に照らされ、長くなった影を引きずるように歩いている男の姿を確認できた。
――見覚えのある後姿――
最初は影しか確認できなかったが、その影を見た瞬間に、すぐに私が追いかけようとした男だと分かったのも考えてみれば不思議だった。
その影はゆっくりと揺れている。少し涼しい風が吹いていて、まるで、その風に影自体が揺られているようにさえ見えた。千鳥足に見えるその影を追いかけるのは難しいことではなかった。
かすかにタバコの匂いが香ってくる。少し湿気た空気に混じってのタバコの匂いは、決して心地よいものではない。思わず顔をしかめてしまったくらいだ。
私は少し早歩きになった。しかしゆっくり歩いているはずの男に近づくことはできない。
「変だな」
思わず呟いたが、ある意味安心した。これ以上近づくと不安を感じるような気がするからだ。気付かれるということ以上に、近づけない聖域のようなものを感じるのだ。
タバコの匂いを感じるたびに腹が立ってくる。その男がどんなに普段はいい人であっても、今のあの男は私にとって、許されざる人物なのだ。普段、マナーを守らない連中に感じる憤りは、まったく知らない人だから感じることなのだ。そこに少しでも知っている人がいて、感情が入ってくるならば、そこまでの憤りを感じることはない。
しかし、その男だけは、自分の中で許せない思いがする。それがどこから来るものなのかは分からない。きっとそれだけ喫茶「ユニーク」の中でだけ、私の中で存在しえるものなのだという気がしてくる。
私は男を追いかける。追いかけようと感じたのは衝動的だったのだが、その思いが次第に大きくなり、こんな行動を取らせるのだ。
実はこれが初めてではない。小さな頃にも、自分の中で許せない人がいて、その人を追いかけてみたことがあった。最後どうなったのか思い出すことはできないが、それも心の中に封印してしまっているような気がする。
あれは小学生の頃だっただろうか。その時のイメージがシンクロしていて、あの時も追いかけたのが影だったような気がするのだ。
――確か、見てはいけないものを見てしまった――
そんな気持ちが頭をよぎる。
小学生の頃に見かけた男は私の中でだけ許せない行動をした男で、他の人が見ても何も感じないだろう。今見たとして、自分の中で許すことができるだろうか? きっと今でも同じかも知れない。
私がマナーを守らない人が許せなくなったのは、この時が最初だった。その時はなぜ男を追いかけているのか自分の中で自問自答を繰り返し、追いかけ始めたらもう後へは引き返せないような気持ちに襲われていたのである。その時の気持ちをまるで昨日のことのように思い出している。
シンクロすることで、少しずつ思い出しているようだ。あの時も少し風が吹いていたっけ。いくら田舎とはいえ、舗装もされていない道を歩いていた。小石を間違って蹴らないように気にしながらである。アスファルトの照り返しもきついのだが、風によって舞い上がる砂埃も尋常ではなく、子供の頃の記憶の中でもセンセーショナルな思い出の中の一つとして残っている。
板塀の残った長屋のようなところをゆっくりと歩いている男、少し背中を丸め、杖でも突いていそうなそんな様子は、子供心に薄気味悪いものだった。
――目を瞑れば、次第に思い出してくる――
男は長屋を通り越し、小さな川を渡ると、工場のようなところに入り込む。そこが男の本当の住まいかどうかなど、この際どうでもよかった。覗き込んでみるとそこには一人の幼女がいた。泣いているのが最初に分かり、明らかに怯えの表情であることが次の瞬間に分かった。
――幼女虐待――
そう、私の見てはいけないものを見た記憶というのは、幼女虐待だったのだ。しばらくは信じられず、ただ佇んでいるだけだったが、虐待されながらでも声を発することのなかった幼女を見ていると、それが現実の世界なのか自分でも分からないでいた。
――一刻も早くその場から立ち去りたい――
そう感じることで、次の瞬間に私はまったく違う場所にいた。
「夢だったのかな?」
声にしてみるが、自分の声が確認できない。それからの私はそのことを心の奥に封印してきた。そいてそれから自分の世界に入ることを覚えたことを思い出したのだ。
今、目の前の男はそのことを思い出させ、私に何かまた別の封印をさせるのではないかという思いを抱かせる。
昔見た幼女が私を見ていたような気がしたのは、男がどこかの工場に入ってからだった。
そう、目を瞑れば浮かんでくるあのいつもの日配工場なのだ。
――まさかここで幼女虐待――
そんなバカなことはないだろうが、目の前に幼女が浮かぶのはなぜだろう。思わず自分の世界を作ってしまいそうな衝動に駆られている。
私は自分の世界を作りながら、男の姿を思い出していた。どこかで見たことがあると思っていたが、それは小学校の頃の先生に似ていたのだ。
小学生であれば、ほとんどの教科を一人の先生で教えるので、担任でもなければあまり記憶になくても当然である。
いや、記憶にはあったかも知れない。わざと封印していた気がするのだ。その先生は確か何か問題を起こして辞めさせられたという記憶がある。私たち生徒には詳しい話はまったく聞かされなかった。親からも、
「あの先生のことは口にしちゃだめよ」
と釘を刺されていたのだ。
釘を刺されると、それがいくら理不尽なことだと分かっていても、私は口にしない。気分的にやりきれなくて気持ち悪さが残っても、
――口にすればもっと嫌な思いをするはずだ――
と思ってしまうからである。
そうだ、確かに私はどこかで見た記憶があったのだ。
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次