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短編集23(過去作品)

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 それは以前から感じていたことのような気がする。漠然とであるが、それこそ夢の中を彷徨うかのように頭に浮かび、すぐに忘れてしまう。まるで夢の中で何かを捜し求めている時に似ているようだ。
 夢とは実に不思議なものである。覚えている方が不思議で、目が覚めるにしたがって忘れていく。起きている時には絶対に見れない自分の潜在意識が作り出すものだと信じているが、時々信じられないこともある。
 それが、
――見たことがあるようで、覚えていない光景――
 なのだ。
 それは夢の中で見たものなのか、現実に見たものなのか分からない。逆に現実の世界でも最近はあるのだ。例えば今の車窓からの景色にしても、夢の中で思い出していないとも限らない。それが潜在意識の成せる業なのかも知れない。
 これを「デジャブー現象」というらしい。本で読んだことがあるが、「事実は小説よりも奇なり」というが、まさしくその通りで、最近は時間に対してもおかしな気持ちになっている。
 夢と時間の相関関係について考えたこともあった。夢を見ている時はあれだけ長かったと感じているのに、覚めるにしたがって、まるで平面だったような薄っぺらさを感じてしまう。
 元々聞き上手の私ではあるが、友達の中に同じような考え方をするやつが大学時代にはいた。よく友達の家に行っては、そういう話をしていたものだ。時には夜を徹して話すこともあり、そんな時は自分から意見をどんどん話し、白熱した議論を戦わせることもしょっちゅうだった。
 次元についての話をするのが好きだった。
 三次元や二次元という世界はハッキリと目で見ることができるが、四次元の世界というと想像上の世界であって、なかなかイメージが難しい。特撮などの映画のイメージがそのまま頭に残っていることが多いのだ。
 二次元の世界というと縦横の世界である平面、三次元の世界というと、そこに奥行きや高さというものが加わった立体、そこに方角なるものも加わってくるだろう。
 そこに今度は「時間」という観念が加わることによって創造される世界、それが四次元の世界なのだ。そこに、立体という我々の世界の概念を当てはめることは難しい。きっと四次元の世界が存在すると考えても、そこは我々のいるところと同じ、まったく裏の世界なのかも知れないからである。平面がいっぱい折り重なって立体の世界を作るように、もし平面の世界に誰か住んでいたとしても、我々を見つけることができるであろうか。我々は紙の中などの平面の世界を見ることができる。しかし動くことのできない平面の世界、誰も住んでいるはずのない平面の世界は我々には分からない世界なのだ。
 私たちの考える世界は、所詮、誰かが想像した四次元の世界のバリエーションでしかない。それがSF小説であったり、テレビドラマであったりするのだ。そんな中で異次元に思いを馳せ、いろいろな意見を戦わせるのは私にとって楽しいことだった。
 急に我に返って、今自分が何をしてたか、ふと考えることがある。
――あれ? ここはどこなんだろう。私は何をしているんだ?
 と考える時、それはいつも同じ時だったような気がする。電車に乗っての帰宅途中、駅に降りて階段を抜けると、目の前に見えてくる改札口。その改札口が見えたことを確認した瞬間、その時に感じるものだった。
 今までに考えたことはなかった。時々我に返ることがあるのは分かっていたが、それがいつも同じ場所であること、そしてそれがどこであるかということを考え始めたのは、初めて駅前の喫茶店「ユニーク」に寄ってからであろう。
 こじんまりとした駅であるはずのM駅、いつもは階段から改札口まで目の前に見えるはずの光景が、その時に限っては遠くに見えるのだ。いや、小さく見えると言った方が正解かも知れない。しかし、実際に普通に歩いていてもなかなか改札口までたどり着かないと思うのはまんざら気のせいだけではないような気がする。
 そんな時は人の姿も小さく見え、ザワザワとざわついているはずの駅構内の音も、まるで耳栓でもしたかのように遮断されて聞こえる。その代わり、普段感じない風の音が、鼓膜をゆする感覚だけは感じることができるのだ。
 こんなことは恥ずかしくて他人には言えない。会社連中など仕事で必要なこと以外、口など聞いたこともない。今さらながらにそのことを感じさせられる。
 では大学時代の友達であればどうだろう。彼らにしても社会人になって、きっと変わってしまっているに違いない。昔のように話を咲かせることは難しいだろう。
 なぜならこの間までの自分も学生時代にした話など忘れていたからである。
 最近の私には記憶力がない。特に本を読んだりしたことを覚えていない。一生懸命に本を読みながら自分の世界をつくり、その中で没頭するからかも知れない。
 学生時代と違って今の私は規則的な生活をしている。仕事をしている時でも、営業は自分で自己管理をしないといけないこともあり、あまり変わったスケジュールを組むことはない。それだけに週ごとにスケジュールを組んでいて、毎週その繰り返しのようなものである。マンネリ化していないつもりでも、どこかでしているのかも知れないと思うと、そこにサラリーマンとしての悲哀を感じたりするのである。
 そんな中、昨日のことだったのか一昨日のことだったのかハッキリしないのは、きっと仕事を離れれば曜日の感覚などないからかも知れない。家に帰っても決まったテレビ番組を楽しみにしているわけでもない。ただ、殺風景な中でテレビがついているだけの時が多いのだ。
 気持ちを休める時の私はステレオでクラシックを聞くようにしている。一応マンション住まいといっても、高級マンションというわけではないので、ある程度の音は抑えているが、それでもピアノ音楽などのクラシックは心を落ち着かせるには十分なのだ。
――バッハがいいな――
 ピアノ曲、オルガン、その日の気分で曲も変わる。どちらかというと静かな曲が多いかも知れない。
 いつも私は就寝前に本を読むようにしている。活字を見ると眠気が一気に襲ってくるからだ。少しでも本を読んで自分の世界に入ることができるのと、心地よい眠りにつけるのと一石二鳥だからなのだ。
――夢の中でも、自分の世界を作っているのかも知れない――
 そう感じたのは、覚えていないが、寝る前に本を読むことで自分の世界を作っているからだと思えた。きっとそういう夢こそ目が覚めるにしたがって忘れていくのだろう。
――何となく見たようなことがある光景――
 それは夢が私に見せ、目が覚めるにしたがって忘れていったと思っている光景ではないだろうか?
――忘れていったのではない。心の中に封印しているだけなのだ――
 だから時々瞼の裏に浮かぶのだろう。
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次