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田舎道のサナトリウム

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 しかし、それは上を知らないから想像もできないからという発想に基づくもので、実際にはそれほど遠くなかったのだ。
 それを思い知ったのは、自分が最上級生になり、下を見るようになると、実際には自分が上ってきた道なので、どれほどの距離なのか想像もついていたはずなのに、感じてみると想像以上に距離があった。
――こんなに遠いの? まるで立ちくらみを起こしてしまいそうなほどの距離だ――
 と思った。
 そういえば、建物の屋上を下から見た時に感じる距離と、上から見た時に感じる距離とではまったく違っていた。そこには、
――高いところだと足が震える――
 という、高所恐怖症のようなものがあったのだ。
 実際に白石は、子供の頃から高いところが苦手だった。子供の頃に、木登りをしていて、枝が折れたことで背中から落っこちてしまった。その時の恐怖が残っているのだ。
 その時は運悪く、背中のところに石があって、石で背中を強打したことで、少しの間呼吸困難になった。その時、
――このまま死んじゃうんじゃないか?
 と感じたことが白石にトラウマを残させた。
 背中から落ちたはずなのに、落ちていくところが記憶にある。まるで背中に目がついていたような感じであった。
 その時から高所恐怖症になったのだが、肉体だけではなく、精神的にも高所恐怖症が潜在意識として植えつけられたのではないかと感じていた。
 ただ、この思いは潜在意識の中に封印されていて、普段の意識の中にはない。上から下を見るという発想をした時に限って、この思いがよみがえってくるのだ。
 いきなりよみがえってくるので、自分でも潜在意識の中で残ってしまった高所恐怖症が別にあって、距離の錯覚を起こさせるものだということに気が付かない。
――まるで夢を見ているようだ――
 という思いを時々感じるが、それは高所恐怖症以外でも潜在意識の中に残っているかも知れないトラウマが、引き起こさせているものに違いなかった。

                   繰り返し

 白石は駅を降りてから、最初はどこかで食事を摂ってから向かおうと思ったのだが、食事をするところもなかった。その代わり、ひょっとしてこんなことになるのではないかという想像もしていたので、電車に乗る前にパンを一つ買っておいた。パン一つなので、昼食を摂ったとしてもおやつ感覚で食べることができると考えたのだ。
 駅の中にあるちょっとした待合室のようなところでパンを食べると、時間も余ったことだし、歩いていくのもいいのではないかと思い、駅を出てみた。
 駅前はロータリーのようになっていたが、バス停があるわけではない。タクシー乗り場もあるにはあるが、その時はちょうどタクシーが出払っていたのか、一台もいなかった。
――ひょっとすると、乗る人もいないので、事務所の駐車場に駐車しているだけなのかも知れないな――
 と感じた。
 普段なら、タクシー会社の事務所を探して、タクシーを頼むのだが、その日は時間が余ってしまったことで、歩いてみようと最初に考えたことで、タクシー会社を探すのが億劫になった。何となく、目的地に着くまでは、誰とも話をしたくないという思いもあったような気がした。
 徒歩で行く場合、どう行けばいいのかという話はあらかじめ聞いていた。
「研究所までは歩いても三十分程度なので、歩いても行けるんだ。それに道は駅前から一直線なので迷うこともない」
 と、助教授から聞いていた。
「分かりました。歩いていくことも視野に入れておきましょう」
 と答えたが、駅前に着くと、急に歩いてみたくなったのも事実だった。
 ひょっとするとタクシーがいたとしても、歩いていたかも知れない。その時はそんな気分だったのだ。
 このあたりは都会に比べてどちらかといえば寒かった。別に山間というわけでもなく、海が近いというわけでもない。それなのに自分の暮らしていた場所に比べれば数度寒いのではないかと思えた。やはり都会の喧騒とした雰囲気と違って閑散とした風景を見ていると、同じように吹いてくる風でも、寒く感じるに違いない。
――これだけ涼しいなら、歩くにはちょうどいいのかも知れないな――
 と思い、歩くことを決定した。
 駅前のロータリーの向こうにはアーケードのない商店街があった。商店街と言っても数軒の店が並んでいるだけで、客がいないと本当に閑散として見える。本当なら、
――何て寂しいところに来てしまったのだろう?
 と、まるで地の果てを見ているかのような大げさな気持ちに陥るくらいなのかも知れないが、その日はまた違った感覚を持っていた。
――こんなところで住みたいとは思わないが、逃げ出したいと思うほどのことはないな――
 と感じたのだ。
 駅前の商店街を見ていると、その奥にいる店主やその家族のことを考えてしまう。そして白石が他人のことを考える時は、決まってその人になりきらなければ考えることができない。
 それは白石に限ったことではないのかも知れないが、その人になりきってしまうと、感情移入がハンパではなかった。普段から気になっている人がいれば、気が付けば感情移入をしてしまっている。それが学生時代の白石の欠点であり、ある意味長所だったのかも知れない。
 白石本人は、子供の頃は人に感情移入することを長所だと思っていた。しかし、思春期を超えると、その思いがいつの間にか逆転していて、欠点だと思うようになっていた。その経緯を自分では分かっていないのだが、これも思春期の成せる業ではないかと思っている白石は、他にも思春期の自分が何を考えていたのか、思い出すことができないものはたくさんあった。
 シャッターは閉じてはいないが、店は完全に開店休業状態であった。今までに田舎街に何度か行ったこともあり、逃げ出したいくらいの寂しさに苛まれたこともあったが、ここまで閑散としたところは見たことがないと思えるほどの風景に、どうして逃げ出したくならないのか、その時の心境を不思議に感じたと、ずっと考えていたのだった。
 白石は自分が今まで感じたことのない心境だと思ったが、実際にはそんなことはなかった。感じたことがなかったのではなく、感じた心境をすぐに忘れてしまっていたからだ。本人は忘れてしまったために覚えていないが、その時々で、
――こんな感覚は初めてだ――
 と感じていたのだった。
 忘れてしまったことを思い出すことは今までにはなかったのだが、その時の白石は、
――前にも同じような感覚に陥ったことがあったような――
 と感じた。
 しかしそれは初めて感じるという思いとは矛盾しているということで、どうして自分がそんな矛盾した考えを抱いたのか、不思議だった。
 白石は今までに、自分が矛盾だと思うような感覚を抱いたことは初めてではなかった。これまでにも何度かあったのだが、その都度、
――あまり深く考えないようにしよう――
 と思っていた。
 深く考えてもどうしようもないことを分かっていたからなのだが、下手な考えを起こしてしまうと、きっと考えが堂々巡りを繰り返し、抜けることができなくなることを自覚していたからに違いない。
――俺はいつも、堂々巡りを繰り返しながら考え事をしているような気がする――
 と感じていた。
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次