田舎道のサナトリウム
と白石は感じていた。
連鎖反応で片付けてしまえるほど、噛み合った歯車というのは、簡単な動きをしていなかった。
複雑な動きをしているにも関わらず、それを単純な流れだと思っているのは当の本人である白石だった。
――こんな簡単なことが理解できなかったんだ――
と思うと、どんどん理解できている自分が怖くなるほどだった。
しかし、その怖さは決して自分を追い詰めるものではない。増長させないような戒めを込めた意味で怖さと言っているだけだった。
白石が薬学を志すようになったのは、実は不純な理由からだった。
中学高校と成績はトップクラスで、将来を約束されたくらいにまわりからは見られていた。そういう意味では、彼の未来は末広がりに広がっている。どの道を目指そうとも、それを妨げるものはないように思えた。
高校でも特待生として、先生からもちやほやされ、本当であれば、他の連中からも妬まれたりするものなのだろうが、幸か不幸か、彼に対して妬みを持つ人はほとんどいなかった。
中学生の頃に異性に興味を持ち始めていたが、
――俺はまわりの連中とは違うんだ――
という優越感に浸っていた時期であったこともあってか、自分が女性に興味を持っているということを悟られるのが嫌だった。
優越感を持っていても、まわりからはそれほど悪く思われているわけではないというのは、きっと彼の役得なのだろう。
別にまわりから慕われているわけでもない。慕われているのであれば優越感を持つこともないだろうし、優越感を感じさせる相手を慕うということはないに違いないからだ。
中学時代から、仲間内にグループがハッキリしていた。
白石はそのどこにも所属しているわけではない。それだけにいろいろな人が白石に相談に来たことがあった。
相談というよりも、勉強に関してのことであり、
「僕が相談に来たことは、他の誰にも言わないでほしい」
と、誰もが口にした言葉だった。
「どうしてなんだい?」
と聞くと、
「恥ずかしいじゃないか」
というのも、誰もが口にする言葉だった。
まるで班で押したようなセリフしか返ってこないので、白石は誰にも話さないでほしいと言われて、
「うん」
と答えるだけで、それ以上何も返事をすることはなかった。
高校生になると、自分が異性に興味を持ち始めたことの訳が分かってきた。中学時代までは、思春期などという言葉は知っていても、それが今自分に起こっている異変だということに気付かなかった。
気付かなかったというよりも、気付こうと言う意志がなかったのだ。それはまるで、
「一足す一は二」
という理屈が分からなかった小学生の頃と似ている。
つまりは、理解しようとしているつもりで、
――納得のいかないことは、自分の中で否定しているのだ――
という無意識の思いを反映していた。
――俺はまた小学生に戻ってしまっていたんだろうか?
と感じたが、高校生になってから思春期を受け入れられるようになると、小学生の頃と今とでは明らかに違っていると思うようになった。
それが成長というものであり、それをもたらしたのが思春期だと思うと、実に皮肉なものである。思春期という言葉を、どこか他人事のように感じていた自分がいたことに気付くと、
――俺は結局、何かの歯車の上に乗っかっているだけなんじゃないだろうか?
という思いに駆られ、一抹の不安を抱くことにもなったが、それはそれで理屈として納得のいくことであれば、歯車の上であっても、別にそれは問題ないと思っている。
「個人というのは、社会の歯車のひとつに過ぎないものだからね」
という理念を持っている先生もいて、その理屈に一定の理解を示しているつもりだった。
――歯車であっても役に立っていればそれでいい――
という考えが表に出てはいたが、
――何か人と違っているところがないと、生きていても面白くないじゃないか――
という思いも抱いていた。
歯車であってもいいという思いをずっと抱いていると、自分の中でストレスが溜まってくるのを感じた。
――別にそれでいいと納得しているはずなのに――
という思いと、
――人と違っている方が面白いに違いない――
という思いは、交わることのない平行線を思わせ、これ以上突き進んでしまうと、
――これ以上は何も考えられない――
というところに行き着くまで、考えることをやめないような気がして、それが恐ろしかったのだ。
そんなことを考えながら白石は教授の下で研究に勤しむようになったのだが、なかなか教授は白石に心を開こうとしなかった。さすがに大学教授というと気難しいところがあるのは最初から分かっていたので、それほど驚きはしなかったが、
――そのうちに心を開いてくれる――
と信じて教授に従うことにした。
気難しいところは確かにあるが、職人と呼ばれている人のようなことはないと思っていた。
白石が感じている職人と呼ばれる人たちは、修行中の職人に対して、自分がされてきたことをしてしまう傾向にあると思っていた。それはまるで大学の体育会系のように、「苛め」に近いものがあるのだと思っていた。
「鍛えられて強くなる」
という発想が最優先で、相手がどんな人間なのかというのは二の次だと思っている。
「それに耐えられないのであれば、その人はそこまでの人なんだ」
という意味なのであろうが、白石から見れば、それこそ、
――職人気質の人間でなければ職人にはなれない――
という発想である。
しかし、そうなってしまうと昔ながらの人ばかりになってしまい、時代の流れにおいて行かれるのではないだろうか。長い目で見れば、いや、冷静に表から見れば、それは閉鎖的な世界であり、世間がどこまで受け入れてくれるか、不思議だった。
職人が重用されている時代であればそれでもいいのだろうが、どんどんオートメーション化されている時代の中で、職人がどこまで生き残れるかということになると、一部の人間だけであろう。そうなった時、職人気質だけでか備わっていない人には、どこまで社会に対して順応できるかということを考えると、とても生き残っていけるはずはないと思えるのだった。
その点、研究者は違う。
職人のように、その人の感性や勘のようなものに頼っているわけではなく、薬学であれば、
「開発した薬で、今までは助からなかった人を一人でもたくさん救いたい」
という思いを念頭に続ける研究が最優先で、そこに自らの独自の発想を感性として交えながら、研究を続けていくのが、スタンダードな姿勢であろう。
つまり、職人気質のように、自分たちの流儀を絶対だと思い、他の発想をすべてシャットアウトしてしまうような発想は、学者にはいらないのである。
もちろん、これは白石の勝手な妄想であり、職人であっても、自分たち本位なだけではない人もいるかも知れない。
ただ、白石にとっての職人というのは、やはり「気質」と呼ばれるような頑固なところのある人であってほしいという思いもある。
そんな矛盾した思いを持っていると、おのずと自分たちの世界も、
――職人たちと同じように、矛盾を孕んでいるのではないだろうか?
と思うようになってきた。
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次