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田舎道のサナトリウム

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「私は薬学の研究を始めるきっかけになったのは、以前好きだった女の子が不治の病に罹っていて、それを自分ではどうすることもできないと感じたことだったんだ」
 教授が過去の自分の話をしてくれた最初の時のことだった。時期がいつだったのか思い出せないが、その話を聞いた時、
――教授はやっと俺に心を開いてくれたんだ――
 と感じた。
 教授は、白石が子供の頃から抱いていた「教授」という人種と、いかにも似通っていた。気難しいところがあり、何を考えているのか分からなくなることもしばしば。急に用事を申し付けたかと思うと、研究に集中していたからなのか、申し付けたということ自体を忘れてしまって、同じことを他の人にも頼むこともあったくらいだ。
 最初の頃は、
――わざとやっているんだ――
 とも感じたほどで、自分が嫌われているのではないかとさえ思った。
 しかし、教授の態度は自分にだけ向けられているものではなく、研究生皆が同じことを感じているようだった。
 研究員は教授の目が怖いのか、自分の抱えているストレスを誰にもぶつけることができずに、悶々としていた。それは白石も同じことで、誰もが内に籠もってしまったことで、皆が同じ思いを抱いているなど、誰も考えていなかったに違いない。
 そのくせ、研究はそこそこ進んでいた。それだけ優秀な人材が揃っているということなのか、それとも、そもそも研究というものが個人の技量によるところが強く、団結は二の次なのかも知れないとも感じた。
「白石さんは、教授と個人的にお話されたことってありますか?」
 研究室に入って二年が経った後輩から、そういって悩みを打ち明けられたことがあった。もちろん、今まで誰からもそんな悩みを打ち明けられたこともなかったし、彼の方としても、
「こんな悩みを打ち明けることができるのは、白石さんだけなんですよ」
 と言っていた。
 実際には、その人が白石を選んだだけで、白石の知らないところでは、他の後輩が特定の先輩に悩みを打ち明けるということはあったようだ。水面下で研究員の間の仲が静かに形成されていったのであろうが、静か過ぎて何も起こらないので、不気味な雰囲気なのだろう。
 もし、他の第三者が見れば、この研究室は実に異様に感じられるに違いない。
「白石さんは、この研究室の雰囲気をどう思います?」
 と聞かれて、
「それはどういう意味でだい? 他の研究室と比べてという意味なのか、それとも世間一般の会社などの雰囲気に比べてということなのかい?」
「そこまでは僕もハッキリとは考えていませんでしたが、少なくとも、ここは他の会社の雰囲気とは異様さが際立っているような気がするんですよ」
 その男性は、元々大学を卒業して、大企業の研究班に所属していた。彼にとってそこは居心地のよくないところだったようで、彼が話してくれた内容から判断して、どうやら彼が入った企業には、学閥があるようだ。実際に、この大学出身者はその時の新卒者では彼だけだったようだ。
「結構露骨だったんですよ」
「学閥がかい?」
「ええ、その時、研究班を仕切っていた人は、ハッキリとモノをいう人で、僕に対して大学の批判やよそ者意識をハッキリと口にされて、僕は何も言い返せませんでした」
「それは辛かったね」
「ええ、何が辛かったのかと言って、その人がモノをハッキリと言っているのに、それに対して何も言い返せない自分が悔しかったんです。そんな辛い思いをこれからもずっとしていくのかと思うと、僕はいたたまれなくなりました」
「それが、会社を辞めた理由なんだね?」
「ええ、そうです。僕の他にも結構辞める人が多かったんですが、彼らがどういう理由で会社を辞める気になったのか分からないんですが、彼らも自分では気付いていない人もいるかも知れませんが、自分に悔しさをぶつけようとして、やり場のない思いを消化することができずに辞めていくんじゃないのかなって感じました」
「それはあるかも知れないね」
 白石助手は大学を卒業し、そのまま大学院を経て、研究室に入った。
 いわゆる「生え抜き」と言っていいのかも知れないが、同じような生え抜きも少なくはないが、他から入ってきた人も結構いる。
 そんな人の半分には、研究所の方からスカウトしてきた人も結構いたりする。彼のように不満から辞めてしまった人をピックアップして、勧誘するということもあった。
 中には、現役の人をヘッドハンティングしてくる場合もあるようだ。研究室のメンバーにはそれだけの時間があるわけではないので、ヘッドハンティングのピックアップから勧誘までを担う部署もあるようだ。そういう意味ではここの研究所は、大学ぐるみで力を入れているところのようだ。
 一応国立大学ということで、国からのお金も補助金としてあるようだ。そのためには、成果が必要で、成果を示すために人材が必要である。
 人材確保は成果達成への一番の必須項目で、そこに掛かるお金には糸目をつけないというのが大学側の考え方だった。そういう意味では研究員に対しての待遇も悪くはなく、その代わり、成果を求められるというシビアな部分もあった。やる気のある研究員にとっては、これ以上の気概はなく、
「ここが俺の天職だ」
 と思って研究している人も少なくないに違いない。
 白石は自分の子供の頃を思い出していた。友達と遊ぶということもあまりなく、協調性には欠ける子供だった。そのせいもあり、小学生の頃は成績は最悪で、今から思えば、
――研究室で薬の研究をしているなんて信じられない――
 と思うほどだった。
 白石は性格的に、
――自分の納得のいかないことは、信じられない――
 と思う方だった。
 その思いがあることで、算数の一番最初で躓いたのだ。
「一足す一は二」
 という誰でも分かることであり、誰も疑問に感じないことに対して、疑問を抱いた。
「その理屈、分からない」
 と感じると、そこから先が進まない。
 算数の基礎の基礎というのは、理屈ではなく、
「そういうものだ」
 として頭に入れておくだけでいいはずだった。
 それが中学では公式というものになり、結局、算数にしても数学にしても、最初の段階で疑問を持ってしまうと、そこから先は何もないのだ。
 基礎からの発展が算数という学問である。最初を踏まえてすべてがその発展系になるので、最初に疑問を持ってしまうと、すべてが疑問から離れることはなくなってしまう。
 だから、算数の授業は聞いていても何を言っているのかサッパリ分からなかった。
 だが、不思議なもので、三年生になった頃だっただろうか。何がきっかけだったのか分からないが、唯一納得できた算数の理屈があった。それを理解することで、
「一足す一は二」
 を乗り越えることができた。
 三年分の理解できなかったことを一瞬にして理解できた自分がまるで神童であるかのように思うと、今度はそこからハイスピードで理解することができるようになり、いつの間にか、算数だけは天才的な進歩を示したのだ。
 算数ができてくると、他の教科もできるようになるから不思議だ。
「連鎖反応のようなものがあるのかも知れないな」
 と担任の先生は言っていたが、
――そんな単純なものではない――
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次