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田舎道のサナトリウム

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「まるで聖人君子だ」
 というと、一人冷静な見解の人もいた。
「確かに教授は誰にでも好かれるようだけど、それって却ってウソっぽく感じるのは俺だけなんだろうか? たくさんの人の意見があるんだから、少しくらいは悪いことを言う人がいてもいいと思うんだ。だからこそ、リアルに感じることができるんじゃないかな?」
 という意見をいう人もいた。
 冷静な意見であるが、信憑性はある。その男は皆から、
――天邪鬼――
 のように見られている、一種の変わり者だが、白石助手にはあながち嫌いなタイプには思えなかった。
 友達になりたいとは思わないが、彼の言葉を貴重な意見として受け取っていて、
――無視することの出来ない人だ――
 と思わせていた。
「研究というものは、正論だけを見ていたんじゃダメなんだ。反対意見にも耳を傾けるだけの気持ちがないといけない」
 と教授が講義で話をしたが、学生の一人が、
「それだけ、気持ちに余裕を持たなければいけないということですか?」
 と聞かれて、
「そうじゃない。反対意見の中にこそ、今まで自分が考えていたことの落とし穴があるかも知れないじゃないか。素直な目を持つためにも必要で、本当であれば見えていたはずのものが見えなくて、後で後悔したなんてことのないようにしないといけないからね」
 と教授は答えた。
 教授と言うのは、他の研究員に対して一種の壁を作っている。
――近づくことのできない結界のようなものがある――
 と、教授に対して感じたことがある。
 それはバリアのようなもので、見ることができない壁である。
 ただ壁と言っても、当たったら思わず、
「痛い」
 と声に出してしまうような衝撃は痛みがあるわけではない。
 何か障害物があるのは意識できるのだけれど、それが何であるのか分からない。近づいているはずなのに、近づくことのできないものへの意識はまるで、
――交わることのない平行線――
 を感じさせた。
 それが、教授と助手の間にある「結界」である。
――結界とは決して破ることのできない壁であり、意識できても、触ることのできないものだ――
 という意識が白石にはあったのだ。
 ただその結界を感じることができるのは教授だけなのか分からない。今感じている相手は教授だけなのだが、そのうちに他にも誰か感じることになるだろうということを、なぜかその時列車の中で感じた。
 他に乗客は誰もいないのにである。
 逆に他に乗客がいれば、教授に対して感じた思いを思い返すことはなかったかも知れないと思うことで、車窓から飛ぶように流れている光景に、目を奪われていた自分に気が付かなかったのかも知れない。
 車窓は、途中から山間を走り始めた。
――このまま山に入っていくんじゃないだろうか?
 と思っていたが、案外と早く山間を抜けた。
 どうやら、
――山をいくつか抜けて、未開の地に入り込んでしまったかのようだ――
 と感じていたようだ。
 さっきまでの車窓から見える風景の中に、人を見ることはできなかった。しかし、山間を抜けてまたしても平野部に差し掛かると、そこにはちらほら田んぼで野良仕事をしている人を見かけた。頭に手拭いを乗っけて、もんぺのような時代を感じさせる服を着て精を出している。今どきテレビの田舎訪問番組でも見ることのできないような光景に思えた。
――まるで数十年前の昭和の時代を見ているようだ――
 と、懐かしさを感じた。
 自分はまだ三十歳なので、昭和の風景を知っているはずもないのに、今感じている感覚が明らかに懐かしさであるということに違いないことを確信していることが不思議で仕方がなかった。
 確かにテレビ番組で昭和の時代の光景を見ることはあるが、
――懐かしい――
 と感じることはないはずだ。
 実際に見たわけではないのだから、それも当然のことで、まず目の前の光景をすぐに「昭和の時代だ」と感じることができたこと自体、不思議な感覚を覚えたのだ。
 列車はそろそろ終着駅に到着するようだった。それまでの時間を思い返すと、自分で感じていたよりもあっという間だった。そのくせ、最初に目を奪われていた高校生カップルを見たのはかなり前だったように思えたのだ。
――思い返して感じる時間と、実際に感じていた時間の積み重ねにズレが生じるのは、自分の意識の中に二つの人格が存在しているからなのかも知れない――
 と感じたことがあったが、今まさに白石はそのことを感じていた。
 乗ってきた電車にいた時間に対してなぜか
――もったいない――
 と感じたが、何がもったいないのかまでは分からない。
 それは過ぎ去った時間に関して今まで何も感じたことがないことへの後悔なのか、それとも今日だけの感覚なのか、それすら分かっていなかったのだ。
 車窓風景が少しずつ変わっていくのを感じた。それまでほとんどなかった住宅だったが、少し目立ってきた。そして何よりもさっきまで果てしない平野部が広がっているかと思っていたのに、気がつけば、あまり高いわけではないが一つの山が聳えているのが見えてきていた。
 山は単独で聳えていた。そのせいか、最初はあまり高くないと思った山だったが、近づいてくると、それほど低いわけでもないことが見て取れるのを感じた。
 今まで単独の山というと、学生時代にローカル線から見たぼた山が唯一記憶に残っているものだった。
 本当は今までに何度か単独の山を見ていたのかも知れないが、記憶の奥の封印が解かれたのは、大学時代に見たボタ山だけだったのだ。
 そのボタ山というのは、元々炭鉱の名残りであり、そんなに高くないのは、由来を聞いてからハッキリと確認できたように思えた。車窓からの風景だったので、どうしても錯覚を引き起こしてしまいそうで、自分の感覚が信じられないと思うのも無理もないことだった。
 今回の出張で見た山も、ボタ山に似ていた。しかし、感覚として残っている印象のボタ山とは違っていた。学生の頃に見たボタ山は、山肌がきれいな緑に覆われていて、まだらなところが一つもなかった。
 しかし、今回眼の前に聳えている山は、ところどころがまだらになっていて、より自然な雰囲気を醸し出していた。
――自然の山というのは、ああいうのをいうんだろうな――
 と、いまさらながらに感じていた。
 白石は、じっと山を見ていると、そこから目を離すことができなくなっていた。
――山が呼んでいる――
 というと、格好をつけているかのようだが、まさにそんな感覚がピッタリの山だった。
――あそこに、俺の目指す研究所があるんだろうな――
 田舎のひっそりとした研究所をイメージしてみると、
――裏に山が聳えているのもありではないか――
 とも感じられた。
 特に薬学の研究なのだから、新鮮な空気と、山に生えている無数の草木がすべて研究材料になっているのではないかと思うと、ドキドキしてくるのだった。
――研究者としての魂をくすぐられるようだ――
 と感じていた。
 白石は、車窓から見える風景を見ながら
――そういえば教授が以前話していたことがあったな――
 と、自分が回想に入りかけているのを感じた。
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次