田舎道のサナトリウム
ウソとして片付けてしまうことが罪悪であるかのように思えたのは、先ほど見た麻紀の背中が語っていたことなのだろう。
「麻紀さん、あなたはさっきここで泣いていたようにお見受けしたんですが、それはどうしてなんですか?」
と言うと、麻紀は少しきょとんとして、
「私が泣いていたんですか?」
と、まるで他人事のようだ。
彼女が他人事のように返事をするのは、彼女の表情がきょとんとしたことですでに分かっていたような気がしたが、あの時の背中が、この世界の本当の麻紀ではないかと感じた白石だった。
「麻紀さん、あなたは一体誰なんですか?」
「私は、あなたの世界では、もう五十歳になっているおばさんなんですよ。この世界で存在している私は、三十年前の私であり、あなたから見えている私も、その頃の私ではないですか?」
「ええ、その通りです。自分が今三十歳なので、今の自分よりも若い女性であることは確かなようです」
「私は、あなたと会話をしている時は、自分では五十歳の女性だと思っています。でも、あなた以外の人と接している時は、この世界の住人として二十歳の私なんですよ」
「じゃあ、僕の知っている世界とは違う世界にいるということですか?」
「ええ、そうです。そして、そんな私の存在を知っているのはあなただけであり、あなたにしか私とこうやってお話はできないんですよ」
「でも、さっき若かりし頃の教授とお話をしていたではないですか?」
「ええ、でも、それはあくまでも若かった頃の私であり、今こうやってあなたと話をしている私ではないんです。だから、分かった頃の私は今教授のベッドの脇にいて、教授とお話をしているはずなんですよ」
そういって、目の前の麻紀はなぜか寂しそうな表情になっていた。
「どうして、そんなに悲しそうな顔をしているんですか?」
思い切って聞いてみた。
「さっき、あなたは私の後ろ姿を見て、泣いていると思ったでしょう? それは私があなたと正対していて、今まさにあなたが見ている私の顔と同じ心境なんですよ。つまりあなたにしか見えない私は、本当に悲しい気持ちにしかなれないんです」
「どういうことですか?」
「あなたは、もし隣の部屋に行こうとして、扉を開けて、また同じところに出てきたとすれば、どんな気分になりますか?」
麻紀はいきなり不思議なたとえ話を始めた。
「どんな気分って言われても、正直言って、ピンときません。どのように考えればいいのか、少し時間を貰わなければ、想像がつきませんよ」
「そうでしょうか? あなたには一つの結論が見えているはずです。でも、見えているだけで自分を納得させることができないので、そこから先は堂々巡りを繰り返していることに気付いているんですよね」
麻紀の言い方には、確信があるようだった。
そう感じるのは、麻紀の言っていることは自分を納得させるに十分な威力があるように思うからで、目力に圧倒されるのは、そのせいではないだろうか。
信じられないと思っていることでも、自分を納得させるだけのものがあれば、それ以上の力はない。他の人がいくら反対しようが、一般常識から外れていようが、人事らレナ伊という言葉は白石の辞書には存在しない。
「扉を開けてもう一度同じところに出てくるというのは、まるで異次元空間に迷い込んだような気がしてきますね。子供の頃に見たアニメであったり特撮番組で、怖いと思いながら見ていた記憶があります」
「その時、怖いけど、ありえないことではないと思いませんでしたか?」
「ええ、そう感じたと思います。でも、必要以上に感じないようにしようと思っていたのも事実なので、余計なことを考えないようにしようと思うと、最後には忘れてしまっていました」
「人はそれを夢として片付けてしまうんですよね。特に堂々巡りに関してのことは夢だと思うのが一番自然ですからね」
少しそこで会話が途切れた。
お互いに何かを考えているようだったが、先に口を開いたのは麻紀の方だった。
「あなたは、同じ日を繰り返していると感じたことはないですか?」
「えっ?」
その発想は、さっきここに案内してくれた麻衣の発想ではないか。
目の前にいる麻紀と瓜二つの麻衣。名前が似ていること、そして、今が自分の知っている現代から比べて三十年前の過去だという印象から考えて、一つ思い浮かぶのは、
――麻衣は麻紀の娘ではないか――
という思いである。
その思いは、麻紀を見た最初に感じていたのではないかと思ったが、麻紀と話し始めてから、急に違っているのではないかと思えた。その思いは、
――麻衣自身が麻紀なのではないか?
という思いがあったからだ。
「同じ日を繰り返しているという感覚は、確かにあった記憶がありましたが、やっぱり夢として片付けてしまっていたんですよ」
「でも、あなたはその時、納得できましたか?」
「納得できたような気がします。そうでなければ、もっといろいろ疑ってみたんでしょうが、疑う余地もなかったように記憶しているからです」
「そうですか。同じ日を繰り返しているという発想は、私には到底納得できるものではありませんでした。だから余計に考えが固執してしまって、堂々巡りから抜けられなくなってしまったんでしょうね。その時に抜けることができると少しでも考えていれば、自分を納得させられて、同じ日を繰り返すこともなかったんですよ」
「ということは、同じ日を繰り返すか繰り返さないかということは、どれだけ固執せずにすまされるかということに掛かっているんでしょうか?」
「紙一重ということでしょうね。私はその紙一重の薄い方を選択してしまったことで、同じ日を繰り返すという道に入り込んでしまった。それを救ってくれたのが、星野教授だったんですよ」
ここで星野教授の名前が出てくるとは、まったく考えてもいなかった。
「若い頃の星野教授は、あなたにどのような影響を与えたというのでしょうね? それにもう一つ気になるのは、同じ日を繰り返しているという理屈が、さっき麻紀さんが話してくれたような理屈であるとすれば、他にももっとたくさん、同じ日を繰り返している人がいてもいいような気がするんですが」
というと、
「同じ日を繰り返している人はもちろん他にもたくさんいます。でも、そのことを人に言ってしまうと、二度とその世界から抜けられないと思ってしまうんでしょうね。余計なことをしないように考えるのは、それだけ人間が臆病な動物だということなんだって思います」
という麻紀の返事が返ってきた。
「まるで、そばに同じことを考えている人がいるにも関わらず、本当は目の前にいるはずの人の姿が見えてこないような感じではないですか? 同じ日を繰り返している相手も、きっと同じ日を繰り返しているのは自分だけなんだって思っているんでしょうね」
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次