田舎道のサナトリウム
おじさんは、少しすればスースーと寝息を立て始めた。白石少年もその場の雰囲気に呑まれたように、睡魔が襲ってくるのを感じた。そしていつの間にか眠ってしまっていたようだ。
その間に何かの夢を見たのだろうか。気がつけば目が覚めていた。まだ表は真っ暗で、自分がその時どこにいるのか、すぐには理解できないでいた。何しろ自分の部屋以外で目覚めるのは、小学生の時の修学旅行以来のことだったからだ。
――ああ、そうか、昨日から入院していたんだ――
そう思うと、傷口が少し傷む気がした。
だがそれも目が覚めるまでの一瞬のことで、意識がしっかりしてくると、痛みはどこかにいってしまったかのようだった。
腕時計を見ると、夜中の二時を少し回ったくらいだった。いわゆる、
「草木も眠る丑三つ時」
と言われる時間である。
尿意を催してきたので、ベッドから起き上がり、廊下に出た。トイレの場所は分かっていたので、ゆっくりと廊下を歩いていたが、廊下に出た時に感じた眩しさに次第に慣れてきたのか、さほどの明るさではない気がしてきた。
そのうちに、この明るさというのが、微妙な感じがしてきた。
――不気味というイメージよりも、明るさと暗さを両方感じることができる雰囲気なのではないか?
と感じた。
そして同時に、
――これほど気色の悪い感覚はない――
背筋がゾッとするほどの明るさに、
――これは明るさというべきなのか、暗さというべきなのか、表現が難しい。本当に微妙という言葉が一番ふさわしい――
と感じられた。
もうそろそろ明るさに慣れてもいいのだろうが、慣れきれないのは、明るさの中に暗さを感じないからだった。
――明るさも暗さも同時に感じるということは、明るさも暗さもどちらも感じることができないことの裏返しなのかも知れない――
つまりは中途半端なのだ。この中途半端な感覚が気持ち悪さを運んできて、自分を納得させることができず、自分として受け入れることのできない感覚に陥ってしまう。
この感覚を懐かしいと感じたことで、サナトリウムの雰囲気が中学時代の自分を思い出させて、その時に、
――他にも何か感じたような気がしたのに――
という、その時にたぶん、
――記憶の奥に封印したことを思い出せるなら今ではないか――
と感じたのだった。
サナトリウムは、中学時代に入院した病院よりもさらに古い建物だった。まるで昭和初期からここにあるのではないかと思わせるほどの佇まいに、重厚な伝統的なものが受け継がれているような気がした。
それを思うと、中学時代の廊下で、奥に行くほど暗くなっていくのを感じたのを思い出した。遠くに見えるのだから、光が届かないので暗いのは当たり前なのだが、暗さのその奥が、どこまで続いているのか自分では理解できない恐怖に襲われていたのだった。
その時の廊下では、匂いはまったくしなかった。手前にはナースセンターがあり、中で二人の看護婦が作業をしているのが見えた。
こちらの方が断然くらいので、こちらからナースセンターの中がハッキリと見えるということは、向こうからこちらはほとんど見えていないだろう。
ガラス張りのナースセンターなので、ナースセンターの明るさにガラスが鏡の役目をして、中が反射して見えてしまうので、表が余計に見えにくくなってしまう。
音を立てずに忍び足でゆっくりと歩いていると、中の看護婦に気づかれるはずがないと思えてきた。
実際に気付かれることもなくトイレに到着すると、トイレはそれまでまったく無臭だった廊下とは違い、かなりの悪臭が漂っていた。アンモニアの匂いが漂う中で、
――急いでトイレを済ませて部屋に戻ろう――
という意識が強く、トイレにいた時間はあっという間だった。
部屋に戻ると、おじさんのスースーという寝息が先ほどと同じように聞こえてきて、すぐにベッドにもぐりこんだ白石は、
――トイレに行っているのってどれだけの時間だったんだろう?
と思って時計を見ると、何とまったく時間が経っていなかったのだった。
――そんなバカな――
という思い、それがどうしてなのかということをいろいろ考えていると、一つの仮説が白石の頭の中に浮かんできた。
――SF小説じゃあるまし――
とは思ったが、こういう考えもありではないかと思えた。
というのは、自分以外の人の時間が止まっていたというか、あまりにもゆっくりだったと思ったからだ。
ナースセンターで忙しそうにしていたと思っていた看護婦だが、よく思い出してみると、二人とも、テーブルに座って、書類に記入しているところだった。下を向いて一生懸命に筆記していたので、忙しく立ち回っているように感じたが、実際には動きがそんなにあったようには見えなかった。ただ、カラスを挟んで、かなりの距離感を感じたのは、明るさのせいだと思っていたが、実際にはそうではなかったのだ。
今回、サナトリウムの異様な雰囲気を感じていると、思い出したのが、中学時代に入院した病院で、その病院での一日が異様な一日であったことを、今まで忘れてしまっていたということだったのだ。
サナトリウムの雰囲気は、その時の病院とは打って変わっていた。だが、同じ病院内という意識が白石の中にはあり、中学時代に入院したあとにも病院通いをしたことは何度もあったが、その時に入院した時の異様な雰囲気を思い出すことはなかった。
――それなのに、どうして昔のことを思い出したんだろう?
そう思いながら、サナトリウムの中を歩いていると、何だかいつもの自分ではなくなっているような気がした。
病院の中を歩いていると、気持ちは他人事のように思えてきた。
何に対して他人事なのかというと、歩いている自分が他人事なのだ。身体は自分なのだが、考えている自分は自分であるはずなのに、どこか上の空なのだ。
思わず、頬を抓ってみた。
「痛い」
夢を見ているのではないかと思う時、頬を抓るというリアクションをしているのをテレビなどでよく見るが、夢を見ていると、本当に痛くはないのだろうか?
誰が最初に始めたものなのか、迷信だとしても、興味があることだった。
サナトリウムの中で、思わず叫んでしまった。しかし、その声は響いてこない。その証拠にまわりを歩いている人、誰一人としてリアクションを示していない。
――聞こえていないのだろうか?
自分では誰にも聞こえていないと言われても、不思議に感じない思いだった。だが、その思いは自分を納得させることができない気がした。やはり直感で悟る自分と、納得させなければ理解できないと思う自分の両方が存在している。積極的な自分と、冷静沈着な二人である。
そのまま廊下を歩いていると、気になる病室を発見した。そこに書かれている名前に見覚えがあったからだ。
「星野伸明」
この名前は、確か星野教授と同姓同名ではないか。
白石は、そっと病室を覗いてみた。
そこにいるのは、さっき見た麻衣が見舞っている姿だったが、入院している男性は、自分が知っている星野教授ではなく、もっと若い男性だった。
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次