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田舎道のサナトリウム

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 見えてくる終点というのは、そこで何らかの生命が失われるときである。本当の命が失われるのか、それとも科学者としての生命が失われるのか、どちらにしても、自分にとっての大事件であることに変わりはない。
「科学者というのは孤独なものだ」
 と、皆口癖のように言っているが、もちろん本心には違いない。
 だが、それを本当に嫌がっているかというとそんなことはない。孤独と寂しさが同じものだとは思っていないからだ。
 確かに孤独は寂しいものだという認識もあり、寂しいから孤独を感じるものでもあるのだ。
 だが、孤独が寂しいだけのものなのかと言えばそんなことはない。研究者の誰もが研究を始める最初には孤独を感じていることだろう。
 その孤独は、研究者にとって、それまでほしくてたまらなかったものではないのだろうか。自分の自由な時間を得るためには、まわりと一線を画すという意識もある。研究に費やす時間は、他の一般人とは違う時間でなければいけない。中途半端な気持ちで研究をするなどありえないと思っていた。
 一人で研究を続けていると、それまで一緒にいた連中と自分が違う世界に生存しているように思えてくる。普段からバカみたいな話をしていた自分が、本当にバカに見えてくるのだ。
――あんな連中と一緒にいたんだ――
 と思うことで、自分に自己優位性を感じてしまう。
 まわりに対して優越感を得ることで、自分を正当化させようとする。その思いは孤独を凌駕するほどのもので、
――孤独を寂しいなんて思っていた自分が情けない――
 と感じるほどになっていた。
 まわりに対しての優越感は、研究者にとって必要不可欠であり、もし、優越感を悪いことだと感じる人がいるとすれば、その悪いことも必要悪であるという認識を持たなければ、研究員としては失格である。
 それでも研究員を続けたいのであれば、その人は自分の限界を知らなければならない。限界を知ってでも研究を続けることができるかということが一番の問題だが、白石の考えとしては、
「限界を知った人間に、研究など続けられるはずはない」
 と、完全否定をするだろう。
 実際に研究を始めて、最初に感じた孤独に寂しさは一切伴わなかった。
 孤独に寂しさが伴うなどという感覚は、昔々に忘れ去ってしまったように思っている。
 白石にも、昔は孤独を寂しいと思う時期があり、いつから感じなくなったのかと思い返してみると、
――きっと、感覚がマヒしてしまう瞬間を感じるようになってからだろう――
 と思うようになっていた。
 何の感覚がなくなってきたのかというと、白石にはその感覚を思い出すことができなくなっていた。
――研究員になりたての頃は思い出すことができたような気がしているのに――
 そう思うと、何かの感覚がマヒしてしまう瞬間を感じるようになったのは、研究員になる前のことだった。
――あの時誰かに出会ったような気がする――
 そんなことを考えながら歩いていると、なるほど麻衣が言ったように、研究所が近づいてきているのが分かってきた。
 建物は本当に古臭い。赤レンガの壁が塀を形成していて、塀の上には鉄条網が張り巡らされていて、物々しい雰囲気に包まれていた。
――こんな不気味な研究所、見たことがない――
 と感じたが、実際には何かの写真で見たような光景だと思った。
 その時は、何の建物の写真だったのか分かっていたので、ゾッとするような寒気が襲ってきて、背中を流れ落ちる冷や汗を感じていた。
 白石はそれがどこの写真だったのか、すぐに思い出せた。
――そうか、あの写真だったんだ――
 それは、今から八十年くらい前だっただろうか。旧日本軍が、まだ大東亜戦争が起こる前の満州に作られた研究所の写真だった。
「当時、日本には傀儡国家の満州国というものが存在し、そこで秘密裏に細菌兵器などの研究が進められていたんだよ」
 最初にその話を聞いたのは、中学時代の歴史の先生からだった。
 中学生にとって、その話はセンセーショナルなもので、
――ここまで話していいものなのか?
 と思うほど、生々しい話を先生はしていた。
 女生徒の中にはその生々しさに悲鳴をあげる人もいて、教室は一種異様な雰囲気に包まれていた。
 その演出をしたのは、明らかに先生だった。しかし、その雰囲気を作り出したのは、話を聞いていた生徒たちである。先生の話がどんなに生々しいものであったとしても、リアクション一つ一つがその場の雰囲気を創りあげ、話を理解できずに最初はきょとんとしていた人も、教室の異様な雰囲気に呑まれてしまい、恐怖に震えが止まらない人もいたくらいだった。
――先生は、ここまで話してもいいんだろうか?
 と感じたが、先生は、
「このお話は、どこまで話していいのか分からないんだけど、話を始めると、ある程度まではしてしまわないといけないと思うんだ。なぜなら中途半端に終わってしまうと、正しい歴史認識ができず、話を聞いたせいで、下手をすれば、その人にとってトラウマが残ってしまいかねない。それが先生は恐ろしいと思うんだ」
 というと、生徒の一人が、
「じゃあ、どうしてそんな話をしたんですか?」
「先生も迷ったんだけど、君たちには正しい歴史認識ができる目を持ってほしかったんだ。少し過激すぎるかも知れないけど、先生には、話をする以外にないと思っているんだよ」
 というのが先生の意見だった。
 先生の話は、さらに過激なところまで進んだ。
 実際の研究については具体的には言わなかったが、どうしてそんなことが行われたのか、あるいは、その影響が歴史にどのような影響を与えたのか、それを先生は丁寧に話して聞かせてくれた。
 しかし、先生は前置きをしていた。
「これはあくまでも先生の見解なので、なるべく客観的に、事実関係を中心に話をしているつもりなんだけど、実際には、事実の証拠は残っておらず、果たして本当にそこまでの研究が行われたのかは、残存している書物からしか読み取れない。だから、先生の話もすべてが本当だとはいえないんだ。それを踏まえて考えてほしい」
 と言われたが、すでに先生の話は真実以外の何ものでもないという意識が強く、そこからしか何も考えられなかった。
 そう感じることで、
――考えれば考えるほど、感覚がマヒしてくるんだよな――
 と感じていた。
 そして、その時感じたのは、
――将来会う人に、昔出会った相手とまったく同じ人と出会う気がするんだよな――
 と感じた。
 それは、自分だけは年を取っていて、相手はそのままであるという意味である。
 もちろん、そんなバカなことがありえるはずもない。すぐに否定したが、否定したままでは、マヒしてしまった感覚が元に戻らないと思えたのだ。
――どっちがいいんだろう?
 感覚がマヒしたままがいいのか、信じられないという思いをトラウマとして抱えていきていくことの二つに一つである。
 もちろん、どちらも抱えて生きていくわけにはいかない。せめてどっちかだけでも排除することはできるが、片方は残ってしまう。この場合の優先順位を考えていると、どちらかを中心に考えると、避けることのできない矛盾が、そこに存在しているように思えてならないのだった。
――どうすればいいんだ?
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次