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田舎道のサナトリウム

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 今日を一緒に過ごしてきた人は無数にいる。二十四時間という限られた時間の中なので、当然関わる人も限られている。しかし、それでも一人や二人だけということはない。その人たちとは意識の共有が行われていることは間違いない。
 しかし、一日が終わると、一度その意識はリセットされる。
 明日をどんな一日にするかという選択を迫られるからだ。
 その時、自分の希望通りの扉を開くことができなければ、もう一度同じ日を繰り返すことになる。当然無意識でなければいけないだろう。その時に自分と関わっている人の中には、明日への扉を開いて、すでに明日にいる人もいる。同じ日を繰り返す中で関わっている人は、昨日の人とは違っているのだ。
 だから、人は皆、その時の意識が無意識でなければいけない。そこでいちいち疑問を感じていては、せっかくの探す明日を見つけることができなくなる。だから、同じ日を繰り返しているという事実を意識させないために、意識の共有は、別人であっても行わなければいけない。無意識でなければいけないのはそのためだ。
――では、なぜ主人公は、自分が同じ日を繰り返しているということを意識できたのであろうか?
 その小説は、彼が同じ日を繰り返しながら、急に我に返ったと描いている。
 主人公は、翌日には死ぬことが確定している人で、自分が同じ日を繰り返していることに気がついたのは、翌日の扉を開いた時、無意識の中で自分が死ぬ場面を見てしまったからだと描かれていた。
 主人公は交通事故で死ぬことになるのだが、その光景があまりにもリアルだったのだ。何しろ、ただでさえむごたらしい死に方であるのに、それが自分であるのを見てしまえば、我に返るのも仕方のないことだ。
 彼は、自分が同じ日を繰り返すのは、明日になれば、そこで命が途絶えてしまい、すべてがなくなってしまうことを自覚したからだ。
――死ぬのが怖い――
 と、彼は感じた。
 では、死というものの何が怖いのか、実際に考えてみた。
――苦しみなから死んでいくというリアルな現実が怖いのだろうか?
 それとも、
――これから先の夢や希望がそこで終わってしまうのが怖いのだろうか?
 主人公には、その時、ハッキリとした夢や希望などなかった。
――何となくあるような気がするんだけど漠然としている――
 そういう意味では、夢や希望を途絶してしまうことが怖いという感覚ではなかった。
――やっぱり、リアルな苦痛が恐怖を呼ぶんだ――
 と考えた。
 小説を読み込んでくると、確かにオカルト小説としての恐怖を煽られているように思えたが、次第に小説の世界に入り込んでくると、自分が主人公になったようで、そう思うと不思議と恐怖を感じなくなっていた。
――オカルト小説って怖いものだと思っていたけど、それだけではないんじゃないだろうか?
 と考えるようになっていた。
 主人公の気持ちになりきって読み込んでみると、他のオカルト小説を読んでも怖くないと思えてきた。ただ、中途半端なオカルト小説は、主人公にのめり込むことができず、結局恐怖だけが残ってしまった。
 テレビのオカルト番組は、さすがに恐怖しか覚えなかった。
 元々、オカルト作品として映像化を目指しているので、映像にしてしまうと、主人公にのめり込むことができず、恐怖だけが煽られてしまうのだ。オカルト作品を恐怖ものとして自覚している人にはそれでもいいかも知れないが、白石のように
――想像力の賜物が小説なのだ――
 と思っている人にとって、小説を映像化してしまうと、一番の醍醐味や作品に触れる趣旨が変わってしまい、
「しょせん、原作以上のものを作ることはできないんだ」
 と思わせるのだろう。
 映像化すると面白くないと思っている人は案外と多い。ただ、その理由を考える人はあまりいないのか、ほとんどの人がそのことで議論することはないように思えた。
 もちろん、自分のまわりだけしか知らないのでそう思うだけなのかも知れないが、それでも白石が考えていることに類似した考えを持った人はあまりいないと思っていた。そんなことを考えながら歩いていると、自分が今いる場所がどこなのか、分からなくなりそうで怖かった。
――俺は今、研究所に向かって田舎道を歩いているんだ――
 という自覚があったが、歩いている道が、本当に正しいのか疑問に感じられた。
「駅を降りてから、まっすぐの道なので、迷うはずはないよ」
 と言われたが、子供の頃にそう言われて、一人でおばあちゃんの家に向かったことがあったが、その時、自分が信じられなくなったのを思い出していた。
 あれは、まだ小学生の低学年の頃だったか、自分から、
「おばあちゃんのところに、一人で行ってみたい」
 と言って、親に申告したことがあった。
 親としての考えもあるだろう。
「そんな危ないことさせられないわよ」
 と母親は言ったが、
「もうそろそろそれくらいしてもいいんじゃないか?」
 という父親の鶴の一声で、おばあちゃんの家に行くことになった。
 途中の道で、迷うことはなかったが、歩きながら恐怖を感じていた。その時に感じたのは、
――決して後ろを振り向いてはいけない――
 というものだった。
 その頃、「ソドムの村」の話を知ってはいなかったが、おとぎ話なので、
「決して見てはいけない」
 という話が多いのは分かっていた。その思いが怖くて、一度も後ろを振り向かずおばあちゃんの家に着くことができた。
 父親が後ろから隠れてついてきてくれていたのをもちろん本人は知らない。前だけしか見れなかったのは、自分の恐怖からだったが、父親としては、
「あいつはきっと後ろを振り返ることはない」
 と思っていたようだった。
 実はその時、白石は振り返りたくて仕方がなかった。振り返ることで、何かを発見できるという思いがあったのも事実だが、どうしても振り返ることができなかった。
 最初はそれを、
――怖いからだ――
 と思っていたが、実はそうではないような気が、今になってしてきた。
 将来において、同じような経験をすることがあり、もし、その時に振り向いていれば、将来、同じような経験をした時、思い出すことができないと思ったのではないかと感じた。
 実際に、今回同じような感覚に陥ったことでその時のことを思い出すことができたのだが、思い出すことが今の自分にどんな影響を与えるのか、まだ分からない。しかし、あの時、子供心に、
――将来思い出すために、振り向いてはいけないんだ――
 と感じたことは事実で、振り向かなかったことをよかったと思っているのも事実である。
 そう思うと、今回研究所への出張を自分に命じた教授と、昔の自分に何らかの因果関係があったのではないかと思えてきた。今日という日が偶然でないとすれば、これから向かう研究所で、どんなことが起こるというのか、こんな偶然、気持ち悪いというよりも、ワクワクしているといってもよかった。
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次