田舎道のサナトリウム
歩くスピードは一定だった。元々歩くことが多い白石は、自分の歩くスピードをあまり気にしたことがなくとも、同じ道を同じ時間に出発すれば、到着する時間にほとんど誤差のないことは自覚していた。大学に電車通勤している白石は、いつもタイムカードを打刻する時間に、まったくの差がないことを分かっていた。今日もそのことを分かっていたので、歩くスピードが一定であることを自覚していることで、余計になかなか風景が変わらないことに苛立っていたのかも知れない。
太陽を背に歩いているので、背中が少し暑く感じた。風はそんなにあるわけではなく、穏やかな暖かさだった。
最初、駅に降り立った時は、
――都会より少し寒いような気がする――
と感じていたが、歩いているうちにいつの間にか気がつけば、背中が汗ばんでいるように感じられた。
歩いていると、普段感じない思いが浮かんでくる。
――何の変哲もない寂しいところを歩いていると、時間の感覚も距離の感覚もマヒしてくるようだ――
普段はもちろん、歩き慣れた道しかほとんど歩くことはないので、大体どれくらいの距離を歩けば、どれくらい時間が経ったのか、あるいは、どれくらいの時間でどこまでいけるかということは、ほぼ分かってくる。しかし、それを踏まえてみても田舎道のような何もないところを歩いていると思うだけで、時間や距離の感覚はマヒしてくるのだった。
白石は、何度も振り向いてみた。どれほど歩いたのか、振り向いたからと言って分かるわけではないが、最初に感じた、
――前を見て歩いていると、まったく前に進んだ気がしないのに、後ろを振り向くと、かなりの距離を歩いているんだ――
という思いがあったことで、後ろを振り向けば、前に進んでいるという自覚が持て、安心できるからだった。
ただ、何度後ろを振り向いても、歩いてきた距離に差がないような気がしてきて、次第に、
――本当に前に進んでいるのか?
という気持ちが現実のものとなってきているような気がしてきたのだ。
堂々巡りを繰り返しているという感覚を、
――怖いものだ――
と感じたのは、学生時代に読んだオカルト小説からだった。
元々、オカルトのような怖い小説を読むことはなかったのだが、SF小説は好きで読んでいた。その時に読んだ小説も、SF色の豊かな話で、作家自身がSF小説家で、その話もSF小説だと思って買ったのだった。
読み進んでいくうちに、
――オカルトのようだ――
と感じたが、すでに小説に入り込んでしまっていたので、途中でやめることはしなかった。
怖いと思いながらも引き込まれていく内容に、オカルト小説が自分にとって、食わず嫌いだったのではないかと感じるほどだった。
小説の内容は、一人の男性が同じ日を繰り返すというものだった。
午前零時になると、前の日と同じところに戻っている。最初は夢だと思った主人公も、一日を過ごしてみると、前の日と同じであることに愕然とするが、そのすべてを知っているだけに、ただ、何も考えずにその日をやり過ごした。
どうして抗うことをしなかったのかというと、下手に抗っても、結局同じ結果にしかならないと思ったからだ。自分がどこかの不思議な世界に入り込んだのだとすれば、下手に抗わないことを最初から分かっていたのだ。
主人公はそれだけ冷静だった。ひょっとすると、こんなことが起こるような予感があったのかも知れない。
彼は考えた。
――ひょっとすると、同じ日を繰り返しているのは自分だけではないのかも知れない――
この思いはかなり奇抜なものであるが、冷静に考えるなら、こう考える方が理にかなっているような気がした。
――同じ日を繰り返しているとしても、その人には自覚がない。最初から抗うことがなく、まるでロボットのように、前の日と同じ行動をするだけだ。ただ、そうなると、前の日と次の日では、同じ人間でも種類が違っているのかも知れない。同じ日を繰り返しているのではなく、別の次元が存在し、その次元自体が一日遅れているのだと思うと、同じ人間でも、違う次元に存在している自分がいるというだけのことではないか――
そう思うと、次元が違って同じ人間が存在するということは、ひょっとすると、同じ人間同士で、意識の共有が行われていると考えるのも無理のないことだ。
――違う次元を創造するのであれば、意識の共有も認めないわけにはいかない――
というのが、白石の考え方だった。
彼は科学者の端くれだ。科学で証明できないことは本当であれば信じるべきではないのだろうが、
「今は証明できないだけで、いずれ誰かが証明することになれば、今、バカバカしいと考えている人だって、手のひらを返して信じることになるんだからな。実に現金なものだよ」
と、科学で証明できないことに対しての話題の中で、出てきた意見があったが、
「まさにその通りだ」
と感心したのは白石だった。
彼もまったく同じ考えだった。
科学者というのは、まわりから堅物のように思われがちだが、実際には柔軟な考えを持っていなければ、新しいものを発見したり開発したりなどできるはずもない。科学者を堅物のように思っている人の中には、科学者に対しての妬みのようなものがあり、それこそ柔軟性のない「堅物」なのではないかと思っている科学者もいるだろう。
同じ日を繰り返していた主人公は、最初は、
――このままでもいいか――
と思っていた。
本当であれば、同じ日を繰り返すなど、人生の喜怒哀楽を放棄してしまったようで、ただ生きているだけのように思われるだろう。しかし、この主人公は、別のことを考えていた。
――同じ日を繰り返しながら、自分が少しずつ変えていくことにより、新しい明日ができあがるんじゃないか――
と考えた。
今日が終われば明日が来るというのは当たり前のことであるが、その明日というのが決まっていると誰が言えるだろうか?
明日への扉が開かれると、そこに存在しているはずの明日には、無限の可能性が秘められているのではないかと思っている。
つまり、
――今日という日は、明日のどの扉を開くかを決めるための日でもあるんだ――
という考え方である。
そのために、今日を何度も繰り返し、明日への扉の中から、自分の納得のいく扉を開くために、今日という日を繰り返しているという考え方である。
白石はそこまで考えてくると、
――今日から明日の扉を開くのが無意識な理由を理解した気がする――
と感じた。
今日という日は、明日への扉を開くための日でもあるという考え方で、明日が自分にとってどんな日になってほしいのかということを誰もが無意識に感じている。それは人間だけに与えられたものであり、そのために、人間は言葉などで他人と意志の疎通ができるのだ。
明日への扉は一度で開く時もあれば、何度も繰り返さなければ開けない時もある。それだけたくさんの可能性があり、その人が進む道を無意識に選択している。
それを本能というべきなのだろうが、その本能は、他の動物の持ち合わせているものとは種類が違っている。
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次