短編集22(過去作品)
鎮魂花
鎮魂花
その店に最後に行ったのはいつだったんだろう?
あれはまだ、風が冷たい時期だったので、季節としては今に近い時期だったであろう。強い風に軋みながら耐えている丸裸の木々が、痛々しく見えたものだった。揺れ落ちる葉などもすでになく、見ているだけで寒さが骨身に沁みてくる。時間的にはまだ陽が沈む時間帯ではなかったであろうが、舞い上がる砂が乾燥した空気をさらにもやったものにしていたようで、あまり先まで見えなかったのを記憶している。
――まるで昨日のことのように感じるのはなぜだろう?
確かに最近、このあたりへ来ることはなかった。一年前に引っ越してからは特にその傾向が強く、それまでにかかわっていたところへは、意識して近づこうとしなかったからであろう。時間を飛び越えたような感覚があるのである。駅を降りてから、駅前の道を歩き始める。
――もうあれから二年も経ったんだな――
しみじみ思ったが、それが正直な気持ちだった。まったく近づかなかったこの空間は私の知っている「以前の空間」以外の何ものでもない。寸分狂わぬ記憶として、目を瞑れば浮かんでくるそのままだった。たぶん少しでも違うところがあれば、瞬時にそれを見抜き、それ以外の風景までもが、まったく違ってしまったかのように見えるに違いない。きっと、感じる暖かさすら違っていたことだろう。
――この二年という歳月が私にとって何であったか――
そのことを今さらながらに感じているからであろうか。今まで近づかなかったこの土地に近寄ってみる気になったのだ。この場所自体に嫌な思い出があるというわけではなく、逆に中途半端な気持ちを残したまま去っていったような形になっている気がするくらいなのだ。それが何なのか、今となっては思い出すことすら困難なことだ。
しかし強い思い入れがあるのは事実なようで、懐かしさとは別に言い知れぬ胸の高鳴りのようなものがあったのも事実で、それが中途半端な気持ちにあると思うまでに、それほど時間は掛からなかった。
駅前には、正面にバス停と、たまにしかいないタクシー乗り場があるだけの、閑散としたものだった。バスにしても、それほど路線があるわけでもなく、昔からある住宅地までの路線を中心に一時間に一本あるかないか程度のものである。
少し離れたところには、車の月極駐車場と駐輪場がある。駐輪場には自転車の数は結構見受けられるが、駐車場の方に目をやると、相変わらずの疎ら状態だった。二年経った今もそれは変わっていないようで、今日も二、三台しか留まっていない。
――やはりほとんど変わっていないんだな――
駅前を見る限り、その考えに間違いはなかった。
駅前の通りを少し歩くと国道に出る。そのあたりまで来ると変わっていることは、仕事で通ることもあって知っていた。それだけに変わっていないこのあたりが嬉しかった。
通りを少し入ったところにある内科の看板も相変わらずである。こんな奥まったところに病院があるなんて、最初は私も分からなかった。何度目かに通った時にやっと気付いたくらいで、それも陽が暮れてから帰りに見たからで、看板にネオンがなければ気付かなかったであろう。
黒猫が石塀の上にいたのをハッキリと覚えている。最初は暗闇に紛れて、何かが動いているという感覚しかなかったのだが、鋭く楕円が光った時に感じた不気味さは、目であると悟るまでに感じた恐怖を大きく上回っていた気がする。
「ミャアァ〜」
声が腹の底に響いてくる。狭い路地に反響してなのかも知れないが、それにしてもエコーの掛かり方は半端ではない。
猫がいなければ気にもしなかったかも知れない路地には、何度となく猫がいたのを見たようだった。
昔からの病院で、白髪交じりの老人医者が出てきそうな雰囲気がある。コメディ映画の「博士」のようなよれよれの白衣で、髪の毛が爆発したような男を想像する私も、結構変わっているのかも知れない。
昼間通る時に気にして見ているが、夜ほどのインパクトは感じられない。いかにもひっそりとしていて、まったく目立たない。却ってそれが不気味なくらいで、陽が暮れると一気に押し寄せるのかも知れない。
「黒猫と病院」
いかにも、小説のタイトルにでもなりそうな組み合わせだと思いながら、いつも見ていた。どちらのインパクトが強いのか分からない。しかし、絶妙な組み合わせであることには違いないだろう。
――猫が一声鳴くたびに、入院患者の寿命が……
などと不気味な発想をしてしまう自分が怖い。
しかし私が行く目的地は、そこからまだかなり歩くところにある。歩いて十五分は掛かるであろうか、直線距離にすればそれほどの距離ではなく、線路沿いにあるにもかかわらず一度国道に出ないといけないのは、途中に立ち並んだ住宅地を抜けられないからだ。
本当は抜け道があるのかも知れないが、少し入り組んだ住宅地で、しかも少し丘のようになったことから、却って時間が掛かってしまう。住宅地というと同じような家が立ち並んでいることもあって、一旦入り込んでしまうと、自分がどこにいるのかすら分からなくなるほどである。きっと方向音痴ではない人が通っても、一発で覚えることなど困難を極めるはずなのに、私のような方向音痴には、そんなところに最初から近づかない方が身のためなのだ。
駅を降りてから国道までの一本道は、それほど広い道ではないにもかかわらず、しっかり歩道もできていて、街路樹も一定間隔に植わっている。どうやら地区で管理しているもののようで、掃除もキチンと行き届いている。
以前のように街路樹を気にして見ていると、気がつけば国道の近くまで来ていた。
――おや?
今、まさに国道の角を曲がろうとしている女性がいるのに気がついた。コートの衿の部分をスッポリと隠すくらいのストレートな髪が綺麗に光っているのが、最初に目に飛び込んできた。グレーのコートは足のラインをキッチリと隠しているが、後ろから見ても分かるだけのスレンダーさに、さぞや括れた足首が想像できる。しかもブラウンのブーツの上の方はすっかりコートに隠れていて、膝くらいまであるロングブーツであることは容易に想像できた。
――さっきまでは見かけなかったはずだが?
確かに電車の中で、彼女とおぼしき女性がいたのを覚えている。しかも同じ駅で降りたことも。しかし駅を降りてから先は見失ってしまい、きっと違う方向へ歩いていったのだろうと思っていたのだ。
駅前の道を歩いてくる時、気がつかなかったのは事実である。いや、確かにいなかったのだ。どこからともなく現れたという感は否めなく、途中寄るような店があるわけでもないのに、不思議だった。
――しいて言えば薬屋があるくらいだな。きっと薬屋に寄ったのだろう――
と思うことにした。きっと私が改札を抜ける前に入って、病院の角を気にしている間に出てきたのかも知れない。それ以外に説明のしようがない。
しかし疑問は残る。
あまりにも改札を抜けてから薬屋までの到着が早いからだ。特に女性の歩幅、走ったとしか考えられない。まったくもって不思議である。
――やっぱりここはヘンな通りなのかな?
以前来ていた頃にもよく感じたことだった。
作品名:短編集22(過去作品) 作家名:森本晃次