短編集22(過去作品)
いわれなく陥る鬱状態も「夢」が引き起こすことなのかも? とさえ思う。同じ人を見ているにもかかわらず、昨日までとまったく違う色や明るさをその人から感じるのだ。それを感じることによって記憶の封印が解けるのだ。陥る時に予感めいたものがあることから考えても、無理のないことに思えてくる。
記憶が断片的で、肝心なところが抜けているということであれば、袋小路に陥ることも理屈に合うのではないだろうか。肝心なところを自分の考えや想像だけで埋めようとするから同じところを堂々巡りするのであって、結局自分の潜在意識が見せるものが夢であることを考えると、夢の中でも堂々巡りしていたのではないかとも思える。
――夢とは見るものではなく、潜在意識による想像力で作られたもの――
と考えると、起きる寸前の数秒で見るものだという考えもまんざら信憑性のないものでもない。
目を瞑ると広がっている天井の波紋のような年輪、小さい頃から見ていた光景は、眠りに落ちるまでの毎日見ていたものだ。時々、その天井が落ちてくるのでは、という衝動に駆られ、ハッとすることがあった。背中にじんわりと汗を掻き、我に返るのだが、それも一瞬のことである。
一つのものを見ているとまわりが一切気にならなくなるというのも私の性格の一つだった。いろいろなことをこなすのが苦手で、集中力の欠如はずっと気になっていたことだ。しかし、いざ一つのことに構っている時の集中力は、我ながら感心する時がある。特に想像力を働かせている時には、まわりに何が起ころうとも集中している。しかも自分で集中していることを意識しながらである。
特に、歩いている時など神経は前にだけ集中していて、見ているのだろうが、意識はそこになく、おぼろげなものだ。しかし、道を間違えることがないのは無意識ながら歩くことへの最低限の集中を損なっていないからだ。それは本能という言葉以外に私は表現のしようがない。
私は今、夢の中の肝心な部分を思い出そうとしている。そうすれば袋小路からも抜け、繋がった記憶がトラウマから私を解き放ってくれそうな気がするからだ。
私の記憶は、ボロアパートの前の道を歩く男に集中していた。何とか男が顔を上げ、こちらを見つめてくれないかということを願っているのだが、実は言い知れぬ恐怖が心の底にあることを感じている。
――玄関に消えていった男を見た時、顔を見れずガッカリしたという思いよりも、ホッとしたという気持ちの方が強い――
緊張の糸が完全にそこで切れていた。
切れた緊張の糸を再度繋ぎ合わせることは、不可能に近い。それだけに、男が玄関に消えてから「おねぇさん」の部屋に入るまでの意識は、抜け殻のような自分によって作られたものかも知れないとも感じるのだ。
私には「おねぇさん」にもトラウマがある。なぜ私のような中学生を誘惑したのだろう。ハッキリとは覚えていないながらも、妖艶なのは雰囲気だけで、子供心にまだあどけなさが残っているような親しみを感じる顔立ちだったような気がする。何となく思い出してきたような気がするのは、やはり今までの記憶の中で、
――どこかで見たことあるような――
という思いが残っているからに違いない。
美奈子という女性が、私の記憶の中で「永遠」のものになってしまったことを知ったのは、それからすぐのことであった。
――実に不幸な交通事故――
彼女の友達から聞かされたのだが、ショックというよりも、なぜか最初から分かっていたかのように違和感なく事実を受け入れようとしている自分が少し怖かった。
この間までは美奈子の妖艶な雰囲気だけが頭に残っていたが、葬儀に出た時に見た遺影を今度は永遠の記憶として残しておくことになるのかも知れない。妖艶だった美奈子を忘れるわけではなく、きっと記憶に封印されるのだろう。
「彼女、そういえばあまり歳を感じさせない女性だったわね」
「そうね、いつまでも若々しく、少し気持ち悪いくらいだったわ」
美奈子の話をしている彼女の友人の会話をふと思い出した。私とぎこちなくなってから聞いたことなのでそれほどの意識はなかったが、もし付き合っている頃であれば、ずっと頭に引っかかっていたに違いない。さらに、
「彼女、どうも昔から一人の男性の出現を待ち続けていると言っていたわ」
「それ、私も聞いたことがある。出会えたようなことも言っていたけど、それにしては寂しそうだったわ」
ざっと、そんな会話だったような気がする。
美奈子が私に、
「あなたには私が必要なのよ。あなたを守るためよ」
意味が分からないまでも、何かの妄想にでも取り憑かれているような気すらしていた。美奈子が永遠に私の記憶に封印されたと感じた瞬間から、みゆきの存在が薄れつつあるのを感じた。美奈子がこの世にいてこそ、私にとってのみゆきであったのかも知れない。美奈子がこの世を去ったことで、私の人生にも軌道修正が余儀なくされた。
みゆきが私の出現を待ちわびていたのか、私がみゆきの出現を待ちわびたのか、いずれにせよ、お互いに求め合っていたのかも知れない。
私はみゆきのマンションに向かって歩いている。少なくとも今はお互いを求め合っている気がしたからだ。
どこかで見たことのある通路だと思った。上からの視線を感じるが、上を見上げることはできない。その日はさっきまで雨が降っていて、切れかけた雲間から差し込む西日とともに虹が見えている。
――夕焼けではないのが残念だ――
今は夕焼けが見たかったが、この空にはあまりにも似つかわしくない。
――みゆきは私を待っていてくれているのだろうか?
私が追い求めるとスルリと腋を抜けていくような気がするのは錯覚かも知れない。
――どこかで狂ったのだろうが、結局は袋小路の人生――
そんなことを考えながら歩いていた。すぐ横にもう一人の自分がいるのを感じながら……。
「まだ来ない?」
男が現れたことに気付かなかったのはなぜだろう?
いや気がついていて、まさかそれがいつもの男だと気付かなかっただけなのかも知れない。私は思わず廊下に出た。
「おねぇさん」の部屋の前に二本の傘が男女物ペアで置かれている。そこには美奈子、そして靖という名前が掘られていた……。
( 完 )
作品名:短編集22(過去作品) 作家名:森本晃次