短編集22(過去作品)
その顔は私の知り合いには皆無な顔で、なぜその顔を克明に想像できたのか、自分でも不思議だった。知っている人をイメージするなら簡単にできようはずなのに、そうではないということは、私の中にその顔を想像できる記憶のようなものが宿っているのかも知れないと思った。
――どこかで会ったことあるのかな?
見かけただけなのかも知れないが、記憶にはない。
――夢に出てきた?
そう考えるのが一番無難だった。
確かに多感な中学時代、異性が気になる年頃なので、女性を夢見ても不思議はない。しかしそれを口にすることはできなかった。夢に出てくる女性とは、たいていが私の妄想の中で生まれるもので、あられもない姿になっていることが多い。およそ普段では想像もできないような妖艶な姿を夢の中だけで楽しんでいる。目が覚めてもしばらくの間は目の奥に焼きついているそんな夢など、後にも先にも中学時代くらいのものだった。
やがて彼女の顔がはっきりとしてくる。
「ああっ」
思わず声に出してしまって、「しまった」と感じていた。西日に照らされて写っている彼女のその顔はまさしく今まで想像していた通りの顔そのままだった。
微笑かける彼女の顔は妖艶さを惜しみなく表に出していて、中学生の私には刺激が強すぎるくらいだった。いつも同級生の女生徒たちを見て大人っぽいと感じていた私だけに、大人のオンナは想像の中だけのものだという思いが多分にあったのだ。テキパキと動いているのだろうが、私の目にはスローモーションのように見え、それがさらなる妖艶さを醸し出しているのだ。
たまに私を見ては淫靡に唇を歪める。まるで誘っているのではないかとまで思えるほどの彼女の表情に、私はタジタジになった。私が焦れば焦るほど余裕の笑みを浮かべる彼女を心の隅で恨めしく思っていたと感じたのは、後になってからのことだったのかも知れない。
しかし、それだけで終わりではなかった。
彼女の余裕のある笑顔をまともに見つめ続けることに疲れた私は、一度思い切り目を瞑ることにした。そしてしばらくして勢いよく目を開けてそこに写っている姿を確認してみたいと思ったのである。
するとどうだろう。
目を閉じたと同時に唇も真一文字に結んだのは条件反射であろうが、その唇の上に温かく軟らかいものが重なってきた。
――彼女の唇?
今まで女性と手を繋いだことすらなかった私だったが、なぜそこまで分かったのか不思議なくらい自然だった。まるで以前にも同じような思いをしたことがあったのでは、と瞬間的に感じたほどである。
それにしても彼女がすぐそばまで来ていたことに気付かなかったなど、何たる不覚だったのだろう。それだけしっかり目を瞑ることに神経が集中していたのかも知れない。本人にそれほどの自覚はなかったのだけれど、結果がそれを表していた。
反射的に目を見開いた。
あまりにも強烈に瞑っていた目なので、急に目を開けてもすぐには状況を飲み込めなかった。ふんわりと軟らかそうな彼女の髪の毛が私の頬を撫で、甘い香りが漂っていることにやっと気がついた。元々女性の部屋に入ることなどない私に、女性独特の香りなど分かるはずもなく、初めて知った香りにしばし酔いしれていたかったのだ。
目を開けた瞬間に唇の緊張も解けたようだ。
「むむっ」
気がつけば、緩んだ唇をこじ開ける彼女の舌は、私の緊張が解けるのを待っていたかのようだ。待ってましたとばかりに忍び込んでくる彼女の舌はところ狭しと私の口の中で暴れている。
なすがままになっていた私だったが、自分の舌が彼女の舌に触れた瞬間、これまた初めてではないのでは、という思いがよぎり、気がつけば舌を絡めていた。吸い付いた唇に力を込め、まさしくディープキスを実践していたのである。
目を瞑ると、大きな草原の真ん中で唇を合わせている男女を遠くから見つめているような気分になっていた。草原をたった二人で占領している光景だったが、何ら違和感はなかった。草原の緑と空の青さが目に沁み、とても印象的だった。
しばらくそんな幻想的な雰囲気に呑まれながら、キスに酔いしれていた私だったが、なぜか途中から何とも言い知れぬ不安感が襲ってきた。どこから来るものなのか分からないが、それが自己嫌悪へと発展して行くのが雰囲気的に分かった。
眉間に寄った皺を意識し始める。何か考え事をしたり、悩み事を考えている時の自覚症状に似ている感じがするのである。
――こんなに淫乱でいいのだろうか?
さっきまでなかったはずの理性が戻ってきたのだろうか?
我に返ってみたところでこの状況に変化があるわけではない。それならば、自分の気持ちに素直になればそれでいいのだろうが、一度戻ってしまった理性をどうすることもできない。きっと心の中に余裕ができたことが、自分を我に返したのだろうが、よりによってこんなところで我に返るのは酷というものである。
そんな私の心境の変化を知ってか知らずか、さらなる吸引力を持って私の唇を求めてくる。ひょっとして私の心境の変化に気付いていて、わざと知らぬふりをしているのかも知れない。私が油断した瞬間にすかさず力を入れてくる彼女は、何もかもお見通しなのだろう。
――もう、どうにでもなれ――
という気持ちが心に宿ってきた時、気が楽になってくるのを感じた。スーっと力が抜けていき、攻めに入った彼女に対し、もう抵抗する気力がなくなってきた。
意識がどこかへ飛んでいきそうな気分になってくると、意識まで朦朧としてくる。寝ようと意識するとなかなか寝付かれない時でも、気分をリラックスすると眠れる時がある。無意識に眠ってしまう時もあるが、私の場合は眠りにつける瞬間が分かる時が往々にしてあるのだ。どうやら今がその瞬間のようで、このまま眠りについてしまうことを確実視していた。
――意識が遠のく瞬間には、どんなことを感じているのだろう――
と感じながら、私の意識は遠のいていったようだ。
まるで夢のような出来事で、それから彼女の部屋の前を通ると意識してしまうことも仕方のないことだが、それからは期待すれども何も起こるはずがない気がしていた。
そのうちに思い出として頭の隅に残しておくことが賢明だと感じた私は、さりげなく気にすることができるようになっていた。
しかし、そうは問屋が卸さないようだ。
あの男が彼女の部屋に近づくようになってからの私は気にするわけにはいかなくなったのだ。部屋の前を通ると気配を気にしてしまう私は、またしても自己嫌悪の毎日に苛まれるようになっていた。
――余計なことを――
私から平常心を奪った男の出現に苛立っている。しかも前以上に苛立ちがあるのは、私と彼女の間に見知らぬ人の介入を感じたからで、淫らな想像も許される限りしてしまう自分が恨めしかった。
必死で中の様子を探ろうとする自分も嫌だった。しかしどうしたことだろう。中からは気配を一切感じないのだ。いけないこととは思いながら、扉の近くまで顔を寄せ、聞き耳を立てたこともあった。もし中から出てきたらどうしようという思いがある反面、中には誰もいないはずだとおもっている自分がいたりして、不思議な気持ちだった。
――確かに男はいつもここで消えている――
作品名:短編集22(過去作品) 作家名:森本晃次