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短編集22(過去作品)

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 あれは秋が深まった頃だっただろうか。午後六時というとまだ日が暮れておらず、西日が黒く細長い影をアスファルトに伸ばしていた頃だった。ちらほらと落ちている小さな石も西日の影響でできた細長い影のせいで、立体感あふれるイメージを私の目に焼き付けてくれていた。
――夕焼けとはよく言ったものだ――
 いわし雲が斑に空に点在しているのを見ていると、青い部分が遠くに見えてくる。そのうちに空の端の方から赤み掛かってきたかと思うと、あっという間にオレンジに染まった光景から目が離せなくなってしまう。
 私はそんな空を見るのが好きだった。遠くから聞こえてくる「夕焼け小焼け」のメロディ、公民館ごとに流しているみたいで、時間差で流れてくる。ちょうどこのあたりが最後になるのか、だんだんと音が近づいてくるような感じがしている。
 その男が現れるのは、いつも近くの公民館からメロディが流れてくる、まさにその時だ。
 いつも来る方向は同じなのだろう、入ってくる角は分かっているつもりなのだが、気が付くのはいつもその男が角からだいぶ歩いてからである。しかもそれが同じ場所というのもおかしなもので、目の前を今まさに通り過ぎようとしている時だった。
――いつも、我に返ったように気が付くんだよな――
 自分に言い聞かせている。確かに、
――気が付いたら男を見ていた――
 というのが実情なのだ。
 男はサラリーマン風ではなく、茶色のジャンパーにマフラーを巻いただけの、かなりラフな服装だった。肩から少し大き目のショルダーバックが掛かっていて、男が小柄なことはあまりにも大きく見えるバッグからも想像できる。
――サラリーマンとは違った哀愁を感じる――
 哀愁というよりもさらに暗さを感じ、悲哀にも似た感じである。
 ゆっくりと歩いているように見えるのだが、ちょこまかと足を動かしているせいか、歩くのが早く見える。実際瞬きをする間に一瞬にして数歩進んでいるのには、いつもながら驚かされる。
 最初の頃は分からなかったが、よくよく見ると白い息を吐いているのが分かってくる。冬でもないのに白い息が見えてくるなどあまり考えられないことなので覚えていた。しかし漠然として見ていたのでは気付かないはずなので、思ったより注意して見ているのだと我ながら感心させられた。
 猫背のように見えたのは気のせいなのかも知れない。じっと前だけを見て急ぐあまり頭を突き出して歩いているからだろう。
 男の影が左右に揺れて、浮かび上がっているように見える。真上から見ているからそんな風に見えるからに違いないが、男は私の視線にまったく気付かないのだろうか?
 最初の頃のような漠然とした視線ではない。身を乗り出して見らんとする視線を背中に感じているはずなのに、私の視線がまったく気にならないのか、上を気にする素振りなどまったくなかった。
 男が見えなくなるのはこのアパートの入り口であった。
 玄関から入ってくるのを確認すると、部屋の扉の向こう側から人の歩く音が聞こえる。当然のごとく、その音の主はそれまで見下ろしていた男に違いないだろう。しかし私は男を確認したことはなかった。好奇心旺盛で見たいのは山々なのだが、子供の冒険心としては、部屋から見下ろして男の行動を観察するに留まっていた。さすがに廊下に続く扉を開けて、正体を確認するところまでは勇気がなかった。
――本当に確認したいのだろうか?
 謎の男のまま、じっと見つめていた方が、私の好奇心を煽るのにちょうどいい気がしてきた。見てしまうことは、勇気がいるというより好奇心を削がれることへの寂しさを感じてしまうからなのかも知れない。
 足音はいつも五歩だった。入ってすぐか二つめの部屋、そこが男の目的地なのだろう。靴音が止まったかと思うと、スーっと扉が開く音がする。私の部屋のように閉まりの悪い扉と違い、木造でこれほど静かになるものかと思えるほどの音で開くのだった。まるでそれがお忍びでもあるかのごとく、さりげなく開くのである。
 このアパートは入れ替わりが激しい方かも知れない。この間入ったと思った部屋の住人が、数ヶ月でもう違う人に代わっていたことさえあった。今は空き部屋のいくつかあることも知っている。
 入り口近くの部屋というと、確か左側の部屋は空室だったはずだ。かと思えば、右側の部屋の住人はかなり古い人で、ここに来てそろそろ一年が経過しようとしているよりも前から住んでいる人である。しかもその人は女性で、まだ二十代であろう。
 私が母とここに引っ越してきてからすぐのことだった。
 母が仕事に出かけている時間帯で、私が学校から帰ってきて、その日は友達との約束もない日だった。いつもだったら、友達と遊びに行くことの多かったその頃の私にしては珍しいことだった。
 補習があったこともあって、学校から帰ってくる頃には、日が暮れかけていた。季節は冬も近かったので、特に帰りが遅かったことを痛感していたが、アパートの廊下に入った瞬間の暗さは、いかのもジメジメした気持ち悪さを思わせた。
 表の夕焼けの残像が残っている目では、一瞬暗闇でアパートの廊下が何も見えなかったのだ。
「お帰りなさい」
 どこからともなく聞こえてきたその声は女性だった。
 母ではないことはすぐに分かった。声の主はハスキーだが、母よりもっと声に張りがあり、年齢的にもグッと若いという認識を持てたのだ。声に聞き覚えはない。初めて聞く声だったこともあり、一瞬自分がどこにいるのか分からないくらい、頭の中で声の主である女性のことを思い浮かべようとしていた。
 思い浮かべるよりも、目が慣れて来る方が早かった。シルエットのように浮かぶその女性は、思ったより背が高く、中学生で、伸び盛りの私よりも少し背が高かったかも知れない。それともシルエットで少し大きめに見えたのだろうか?
 中学に入り爆発的に身長が伸びている私は三年生になった当時、百七十センチ近かったように記憶している。もちろん私より大きな女性などあまり見たこともなく、まず目の前の女性と何を置いても、背比べをしてみたいという衝動に駆られていたことは間違いないだろう。
 だが、さすがに実現はしなかった。
 姿をはっきり確認できないまま、私の手を握った彼女は、そのまま有無も言わせずに私を部屋へと連れ込んだ。
 そこは入り口すぐの右手の部屋で、そこに女性が住んでいることは知っていたが、なぜか一度も会ったことがなかったのだ。アパートの他の人ともあまり会うことはなかったがその部屋の女性に好奇心がなかったわけではなかった。気にしていた相手の顔を確認できないまま部屋に連れ込まれた私は、言い知れぬ不安と同時に、何の根拠もない期待があったことをその時に自覚していた。
「ジュースでも出すわね」
 相変わらず窓をバックにしているためシルエットになった顔を確認することはできなかった。しかし声の質から考えて、体系や顔髪型の雰囲気から、次第に私なりに彼女の顔を想像していた。
作品名:短編集22(過去作品) 作家名:森本晃次