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短編集22(過去作品)

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 忘れていたのだから、絶えず私の中にあり、かつては頭から離れなかったことであることは分かっていた。それだけに、ぜひとも探さなければならないと思っていたのだ。
 広島には仕事にかかる前日からやってきた。いつもであればそんなことはしないのだが、今回の仕事は月曜日からである。前日に現地に入り、今回はどうしても、最初に平和公園から大田川を覗いてみたかったのだ。
――あの時のバスガイドさんの表情に出会いたい――
 これが最初の目的だった。
 それまでは私が何かを忘れていたものを思い出したいという気持ちは表に現れていなかった。ただ、単純に、バスガイドのおねえさんのあの時の表情に触れたいという思いだけだったのである。
 大田川はあの日同様に私を迎えてくれたような気がする。同じように天気のいい日で、水面に照らされて眩しいにもかかわらず、そこから顔を背けられないのは、あの時と同じだった。
 次第に顔が熱くなってくるのを感じた。当然であろう。何しろ熱いさなか、照り返しの強い水面を見ているのだから……。顔を動かせない状態の中、私はそばに誰かがいるのを感じていたが、首の感覚が麻痺したかのように動かすことができなかった。
 本当はそこに誰がいるのか確認したい。いや、本当に人がいるのだろうか? 自分の感覚だけで、本当に人の存在が信じられるかというと自信がない。
――よう子?
 いるはずのないよう子の顔がちらついた。まさしく私の頭の奥底に眠っているバスガイドのおねえさんのポーズそのままに、水面を見つめているよう子……。私にはそれが最初からよう子だと思っていた。バスガイドのおねえさんだと思わなかったのはなぜだろう?
 間違いなくバスガイドのおねえさんのことは一瞬私の頭から消えたのである。
 広島に着いた初日、大田川のほとりにどれくらいの時間いただろうか。気がつけば夕日が沈みかけていて、川面が赤く染まっていた。今まで真っ赤な夕焼けに感動したことはあったが、その日の夕日はまたさらに真っ赤で、燃えている赤なのか、犠牲者の怒りと憤慨の詰まった鮮血の色なのか、何となく匂ってくる潮の香りに混じって鉄の匂いを感じるのは気のせいではない気がしていた。
 ふと横を見ると細長い影が私の近くまで伸びていた。かなり日は傾いているので、結構離れたところに人がいるのは分かっていたが、その人も私同様、じっと川面を見つめている。
 いつからそこにいたのか分からないが、少なくともついさっきまではいなかったような気がする。注意して見ていたわけではないので何とも言えないが、もしいたのなら、目敏いタイプの私に気付かないわけがない。気付かせてくれたのは影である。いつかは気付いていただろうが、人の気配を感じないなど、よほど川面に集中していたに違いない。
 その人は女性である。
 帽子を目深に被り、表情はハッキリと見えないが、視線は間違いなく川面に向けられている。反射で光っている瞳が目に見えるようで、気にならないといえば嘘になる。
 声を掛ける気など毛頭ない。相手が何を考えているのか無意識に探ろうとしている自分に気付いてハッとする。相手はそのことに気付いていないらしく、私は自分で勝手に顔を赤くしていた。
 その時唯一気になることがあったとすれば、その人の存在だけだっただろう。
 後ろめたさを何となく背中で感じながら、私は日暮れとともに夜の街へと繰り出した。
 夜の帳が降りはじめると、今まで眠っていた煌びやかな世界が目を覚ます。そこはどこの土地でも見られるネオンサインが眩しい歓楽の世界であり、さっきまで浸っていた気持ちがまるで嘘のように打ち消す効果があるようだ。きっと、自分の住処に戻ってきたような懐かしさがあるのだろう。
 一気に高校生から大人の世界に舞い戻ってきた。それが懐かしさというのであれば、ネオンサインの魔力は私の感覚を麻痺させるものなのかも知れない。
 それともほとんどが接待に使うためだけに見る夜の街の光景、一度ゆっくり羽根を伸ばしたいという願望の現われかも知れない。
 特に知らない街の夜の顔、私にとって神秘的であるに違いない。
――しかし、ぼったぐられたらどうしよう――
 普段ならそう考える。しかし、感覚の麻痺していたその時に、そこまで頭が回るはずもなかった。
 ゆっくりと歩いていたつもりだったのに、気がつけばかなり奥までやってきていた。まわりを見れば、ネオンサインは疎らで、歓楽街のかなり外れまでやってきていることは一目瞭然だった。
 そんな中、私はふと気に留まった看板を見つけた。
 看板は真っ赤である。考えてみれば広島といえばプロ野球球団はカープ、通称「赤ヘル軍団」と呼ばれているとおり、赤が目立って当然であった。カープといえば鯉、普段なら赤い錦鯉を思い浮かべるであろう。
 しかし、その時の私が思い浮かべたのは、ついさっき沈んだ夕日が水面を照らした大田川であった。
 厳密にいえば「真っ赤」というのとは違うのかも知れない。どう考えても夕日が真っ赤というのは考えられない。限りなく赤に近いオレンジとでもいうべきだろうか。私には少なくとも真っ赤以上の赤色だったような気がして仕方がなかったのだ。
 私は思わずその店の扉を開いていた。
 少し重ためのその扉は、ゆっくりとしか開かないようになっているようだ。薄暗い店内も、表の薄暗さに慣れていたせいか、それほど違和感がない。
 シーンと静まり返ったような店内には、静かなバラードが遠慮がちにBGMとして流れている。
 ちょうど時間帯なのか、それともいつもこうなのか、客は一人もいなかった。
 カウンターだけの店かと思えば、奥に二つほどテーブルがあり、こじんまりとはしているが、雰囲気として嫌いな店ではない。
 カウンターの奥に座るやいなや、待っていたかのようにおしぼりを差し出す女性、彼女はアルバイトなのか、まだ二十過ぎの大学生といった感じである。一見着物が似合いそうな雰囲気に感じるのは、長い髪を後ろで結んでいる雰囲気に清楚さを感じたからであろう。
「いらっしゃいませ」
 お互いにぎこちない。とりあえず頭を下げて微笑んだが、さすがに初めての店は緊張する。
「出張でこちらに来ましてね。真っ赤な看板に惹かれて入りました」
 正直に答えると、彼女は幾分緊張が和らいだのか、穏やかに微笑んでいる。
 最初こそ暗くて分からなかったが、その顔には懐かしさを感じる。
「かすみと言います。よろしくね」
 そういっておしぼりを渡してくれた。笑顔は素敵である。
「最初、広島に来た時は修学旅行で来たんですよ。その時は広島という土地には悲惨なイメージしか持っていませんでしたね」
「そうなんですか。私はずっと広島なので、あまりピンとは来ませんが、他の土地から来られる方は皆さんそうおっしゃいますね」
「広島の女性ってきれいですよね」
「嫌ですわ、いきなり」
「その土地土地でそれぞれ顔や表情は違っても、同じような特徴を持っているような気がして仕方がないんです。まるでその土地の顔とでも言うような……」
「男性に対して同じことを感じたことはありましたわ。きっと、男性は女性に、女性は男性にといった異性に対してそう感じるものなのかも知れませんね」
作品名:短編集22(過去作品) 作家名:森本晃次