二度目に目覚める時
現実社会ではありえないことだ。特に昇は、たとえば、右手で何かをしながら、左手で別のことをするということのできない方だった。ピアノを弾くことができないのは、左右で別々の動きをするのができないからだった。どちらかに集中すると片方はどうしても疎かになってしまう。それが、自分だと昇は思っていた。
さらに、右手が暖かく、左手が冷たかったりする時、右手で左手を覆って、暖めようと考えるが、その時、右手が冷たく感じるのと、左手が暖かく感じるのとで、どちらがより敏感に感じるかということは分からない。
実際にやってみたこともあったが、ハッキリとは分からないのだ。どちらかに集中すればできなくはないだろうが、それすらできないような気がして、結局意識はそれ以上のことをもたらさなかったのである。
夢の中でもう一人の自分が出てきたということは、主人公である自分、さらに客観的に見ている自分以外にも、もう一人いるということだ。その人間は、明らかに自分の意識の中にいる自分ではない。潜在意識が作り出した。
――架空の自分――
なのだ。
それだけに、架空の自分は何をするのか、想像もつかない。今までに何度かもう一人の自分を夢の中で感じたのを覚えている。夢の内容までは覚えていないが、もう一人の自分が現れたことは、記憶の中にハッキリとしているのだ。
ただ、もう一人の自分が夢の中で、主人公の自分に危害を加えたということはない。それどころか、誰にも影響を与えることはないのだ。
――じっとそこにいるだけ――
そんな存在のもう一人の自分は、表情を変えることもなく、じっと前を見つめている。
主人公である昇のことをまったく意識していない。まるで見えていないかのようにも感じられる。
――まるで、別の時代からタイムスリップしてきたような存在だな――
当たらずとも遠からじの発想に、我ながらビックリしたものだが、その発想は意外とすぐに頭に思い浮かんだ。
――タイムスリップしてきた自分は、その時代の自分と遭遇してはいけない――
という暗黙のルールがあるように、昇は考えていた。
誰かと話をしたわけではないのだが、この発想が、もう一人の自分の存在を知ってからなのかどうなのか、曖昧なところだった。しかし、夢の中のもう一人の自分と、タイムスリップの関係に気付くまでにそんなに時間が掛かっているわけではないのだ。それを思うと、
――最初から想像していた――
という考えが、一番強いのではないかと思うようになっていた。
もう一人の自分の存在は、もちろん夢の中だけのものだが、同じような胸騒ぎを感じたことがあった。
――そうだ、あれが綾と一緒にバーに行った時のことだったのかも知れない――
綾は、あの時、
「私と同じような人が、もう一人存在していることを私は分かっているの。それは、まるでもう一人の自分のような存在なのかも知れないわね」
と言っていたが、昇は彼女の、
「もう一人の自分」
という言葉にドキッとさせられた。ただ、その言葉の意味が自分で感じているもう一人の自分とはかけ離れているようで、必要以上な意識はその時にしなかったように記憶している。
その言葉を思い出したのが偶然なのかどうか、今までの昇なら、
――ただの偶然にすぎない――
と思っていただろう。
しかし、偶然というのも、何度も重なってくると、ただの偶然で片づけられなくなってしまうだろう。そこに、自分の願望が入っているかも知れないと感じるからだ。
綾に誘われて、この間のバーに来たのだが、そこには先客がいて、一人で寂しそうに呑んでいた。
――どこかで見たことがあるような――
と思っていたが、すぐに誰だか分かった。そこにいるのは亜季だったのだ。
最近思い出すことが多く、まるで虫の知らせではないかと思えるほどで、今までなら、大げさなほどビックリしていた自分が、完全に拍子抜けしていた。しかも、我に返ると、頭の中はアッサリとしていて、
「久しぶりだね」
と、普通の笑顔で声を掛けることができた。
「ええ、そうね。何年ぶりかしら?」
亜季の方もまるで分かっていたかのように、落ち着いて返事を返してくる。大人の会話に満足しそうだったのだが、自分のことは棚に上げて、亜季が落ち着いていることに対しては、どこか不満な気がした。
――もう少し大きなリアクションをしてもいいのに――
と、自分と出会ったことがそれほど嬉しくないのかと言いたくなるような気持ちにさせた亜季が少し小憎らしかった。それでも、冷静さを装いながら、次第に気持ちが高ぶってくるのを感じると、心の奥からドキドキした感覚がよみがえってきた。
――これも懐かしさの影響なのだろうか?
と思ったが、懐かしさは心の奥にしまいこんで、さらに平静な顔を表に出している。先にこちらから喜ぶ顔を見せたくなかったのだ。それがせめてもの、小憎らしさに対する抵抗のようなものだった。
「昇さんは、ここには何度か来られたことがあったの?」
「いや、彼女にこの間連れてきてもらって、いい店だって気に入ったんだよ」
「今日は?」
「今日は、彼女からもう一度行こうって誘われたので来てみたんだ」
昇は正直に答えた。
昇の考えは、いつもことごとくと言っていいほど、亜季に見破られている。ウソをついても同じことだった。もっとも、この場合ウソをつかなければいけない理由など存在しない。もし、綾が昇のことを気に入っていたとしても、それは今さら亜季には、何の関係もないことだからである。
綾は、二人の様子を何も言わずに見ていた。昇は少なからず綾のことも気になっていた。それだけに、なるべく平静を装うようにしていたのだが、それ以上に、自分の中から高ぶった気持ちが表れることはなかった。
「お二人は、どういう関係なんですか?」
亜季が、切りこんできた。以前から昇に対して高圧的なところが多く、昇の方も、亜季に対して、女性としての雰囲気を感じさせないほど、よく言えば颯爽とした態度を取っていたのだ。
だから、亜季にいきなり切りこまれても、
――そら来た――
と感じることはあっても、驚くことはない。最初から亜季と一緒にいる時は、それくらいの覚悟はしているからである。
「どんな関係というような関係じゃないよ。同じ会社の同じ部署に勤めている人ということだけだね」
と、平然と言ってのけたが、亜季はそれをどのような気持ちで聞いていたのか、
「そうなの。彼女かと思った」
亜季が、直球でそんなことをいう時は、逆に彼女の中で何も根拠がないことが多かった。カマを掛けているのかとも思うが、どうもそうではないらしい。亜季にしてみても、言ってはみたものの、表情は後悔している。それは、きっと根拠もないことを口にしたことに、自分に対しての後悔なのかも知れない。
「そんなことあるわけないじゃないか」
と言いながら、苦笑いをしてあげると、亜季も笑顔を返してくれる。これで幾分か亜季の中にある後悔は薄れていることだろう。
「それにしても、変わってないね」
というと、
「そうかしら?」