二度目に目覚める時
――完全に忘れるはずのないものを忘れてしまうことだ――
ということと、
――あまりにも昔のことで、記憶の賞味期限が切れてしまった場合――
をいうのではないかと思っている。
――記憶の賞味期限?
自分の発想であるにも関わらず、思わず自問自答してしまったこの言葉に、思わず苦笑いしそうになっていた。
モノには、確かに何かの期限があるのだろうが、記憶にもないとは限らないと思っていた。
記憶してから完全に忘れてしまうものは、数知れず。それが十年なのか一年なのか、ひょっとしたら一日で忘れてしまうものもあるかも知れない。中には、
――覚えていたくない、忘れてしまいたい――
という記憶もあることだろう。
そんな思いは得てして忘れてしまったと思っても、完全には忘れているわけではないようだ。どうかすれば思い出すこともある。だから、
――完全に一度記憶したものを忘れることはないのだ――
と思っていた。
しかし記憶という者が色褪せるということは意識としてハッキリとしている。ちょうどその時に、
――賞味期限が切れた――
と言えるのではないだろうか。
完全に忘れることのない記憶でも、最初に覚えようとした肝心なことが形を変えそうになっているのだとすれば、それは完全に、
――賞味期限が切れたようなものだ――
と思っていいだろう。
「賞味期限というのは、おいしく食べられる時期という意味なので、少々切れたとしたって、食べられないことはないさ」
と言っていた人がいて、それには昇も賛成だった。生ものなどではない限り、少々、賞味期限が切れていたとしても、
「もったいない」
と言って食べたことがあった。別に身体やお腹を壊したわけではなく、そういう意味では、大雑把な性格と言えるような気がしていた。
昇にとって、記憶も同じではないのだが、どうしてその記憶に賞味期限という言葉を当て嵌めたのか分からなかった。
しかし、あまりにも当てはまりすぎていることで、思わず苦笑いをしてしまったのだ。ここでも、自分が大雑把な性格であることを思い知らされたことも、苦笑いに繋がったのだろう。
亜季に対しての記憶は、賞味期限とはまだまだ関係のないものだと思っていた。しかし、本当にすべてを覚えていると今までは思っていたが、実際に思い出そうとすると、その思いが怪しいものであることを意識し始めた。
――亜季のことで覚えていることを自分なりに整理していると、どうも繋がらない部分が多々あるようだ――
という意識があった。
それがどの部分なのか、ハッキリと分からないが、元々、四六時中一緒にいるわけではないので、繋がらない部分があってしかるべきなのだ。
――それを無理に繋がるような記憶で覚えていたのかも知れない――
と思うと、
――俺って記憶を改ざんして覚えているのかも知れない――
と感じるようになり、すべての記憶が曖昧に思えてきた。
それは、自分の中に大雑把な部分があることを再認識したからで、賞味期限だけに限ったことではなかったからだ。
ただ、誰にでも大雑把なところはあるだろう。人間、完璧なほど、大雑把なところのない人間などいない。大雑把ではないとすれば、完全なる潔癖症な性格になるのであって、たとえば、
――自分の机や椅子と他の人が触ったからと言って、いちいちアルコール消毒をするようなものだ――
本当にそんな人間がいるのかどうか分からないが、以前読んだ小説の主人公に、そんな潔癖症な人が出てきた。
その時、本を読んでいて、何やら訳の分からないイライラを感じたのを思い出した。最初はその出所がどこなのか分からなかったが、今から思えば主人公のしつこいほどの潔癖症に苛立っていたようだ。
ただこの思いは、昇だけのものではないかも知れない。他にも本を読んで同じような思いをした人は少なくないと思っているが、どうであろうか。
苛立ちは、自分の大雑把な性格から来るのだとすれば、他にも同じ思いの人がいてもおかしくないのだ。
昇は自分の記憶を改ざんしているのではないかと思ったことを、すぐに打ち消していた。改ざんというのは大げさであって、
――記憶というのは、時間が経てば、少しずつ意識の中で変わっていくのは宿命のようなものだ――
と感じるようになった。
記憶というのは、そのままでは思い出すことはできない。記憶の引き出しから出されたものが、自分の中の意識を通して、初めて思い出すことができるのだ。意識を通らないと思い出せないということは、記憶を思い出すための意識が、毎回同じでなければ、同じ記憶として思い出すことはできない。
意識がずっと同じだということはありえない。刻々と自分のまわりの環境が変わっているのに、意識だけがずっと同じだということは、
――何に対しても中途半端でしかない――
と言える。
そう思うと記憶も同じなのではないかと感じるが、記憶に対して違和感を感じることはなかった。
ということは、記憶というものは、以前思い出したものと微妙に違っていても、それは誤差の範囲であって、曖昧な部分は、まるで車のハンドルの遊び部分のように、無意識に同じようなものだと感じているのと同じではないだろうか。
記憶というのは、今から思い出す意識としては、時間的な厚みを感じることはできない。昨日のことであっても、一年前のことであっても、時間と距離で意識するのであれば、さほど違いを感じることはない。それだけに一年前の記憶はほとんど薄れてしまっているはずなので、薄れているという意識から、その記憶が大体それくらい前のものなのかということを、逆に探っている。
だから、記憶というものは曖昧で、どうしても時系列がハッキリしない。
――こんな思い、他にもあるよな――
と自分に問うてみると、
――そうだ、夢と同じではないか――
夢も、子供の頃を思い出しても、昨日のことを思い出しても、懐かしさという意味では、さほど違いがないように思える。
――記憶と夢――
共通点が多いが、違っているところもかなりある。それは、
――夢というものは、潜在意識が見せるものだ――
ということだからである。
記憶から引き出された時に通る意識は、潜在意識ではないと、昇は感じていた。
夢との違いを想像していると、夢の中にある恐怖を急に感じるようになった。それは、怖い夢を見るというよりも、夢の中にある気持ち悪さとでもいうべきであろうか。今まで怖い夢だと思っていたことが、
――気持ち悪い夢――
だという意識に変わっていくのを感じた。
「今までで一番怖い夢というのはどんな夢だい?」
と聞かれたとすれば、迷うことなく、
「もう一人の自分が出てきた夢だ」
と答えるだろう。
夢を見ているという時というのは得てして、自分が客観的に見ていることが多い。しかも、主人公である自分の意識もあるのだ。
つまり、主人公としての意識もありながら、客観的に見ている自分もいるという、不思議な世界だった。