二度目に目覚める時
ゆりかが昇と一緒にいるということを博という男が知ったらどう思うだろう?
いや、そんなことを考える必要など、今の昇にあるはずなどなかったのだ。
第三章 意識と記憶
「私、これからどうしたらいいのかって、ずっと考えていたんです。彼がいなくなったことで私は一人になった。でも、一人になるのって、必然のことだと思うんですよね。人との出会いって、偶然じゃないっていうじゃないですか。だったら、一人になるのも、偶然じゃない気がしてきたんです」
ゆりかは、ゆっくりと話し始めた。
「その通りかも知れないけど、俺はその考えもちょっと違う気がするんだ。その考えだと、偶然なんて存在しないような感じに聞こえるんだけど、偶然だって必要なんじゃないかと思うんだ。だって、偶然がないと面白くないじゃない」
「偶然がないと面白くない?」
「そうだよ。すべてが必然だということは、皆決まっていることであって、敷かれたレールの上を歩いているだけのような気がしないかい?」
「昇さんって、教科書のような話し方をするんですね。まるで先生みたい」
少しムカッときた。
「そんなことはないさ。君を見ていると、そんな言い方になっただけさ」
「それは、あなたが私を見下しているからなんじゃないの? 私は見下されたくないの」
少し話が険悪なムードになってきた。しかし、昇はそんなゆりかに逆らうことはできない気がした。本当は言いたいことがあったにも関わらず、それ以上のことを口にできなかった。なぜなのだろう?
「あの人もそうだった」
ゆりかは話し始めた。
「彼も、自分から喧嘩を売っておきながら、喧騒な雰囲気になると、何も言えなくなってしまって、お互いに黙りこんでしまうの。そんなところがあなたは、あの人に似ているんだわ」
ゆりかは、そう言って、黙りこんでしまった。
昇は、確かにすぐに相手に喧嘩を売るような言い方をするくせがあった。
――相手の出方を見ようとしているのではないか?
と、最近は感じるようになったが、最初はどうしてすぐに喧嘩を吹っかけるような言い方をするのか分からなかった。相手に文句があるわけでもないのに、すぐに相手が興奮してくるのを見て、何かを考えてしまう。どちらかというと、相手が興奮してくると、自分が安心できるような気がしていたのだ。
――勝ち負けでもないだろうに――
と、相手が自分の言葉で反応するのを楽しんでいるかのようだった。
ただ、安心するというのは、すぐに生まれてくる感情ではないはずだ。相手が興奮することで、自分の中に何か心の変化があり、それが嵩じて安心感につながるのだ。しかし、最初から安心感を得たいと思って取った行動のはずである。自分が安心感を得られるという確固たる自信がなければ、すぐに態度を表に出すことのない昇には信じがたいことだった。
昇は子供の頃から、自分の態度をなかなか表に出さない方だった。
頭の中ではいろいろなことを考えているくせに、態度に出さないのは、自分に自信がなかったからだ。
自分に自信がないのは、
――安心感を得ることができない――
という思いから生まれたもので、逆に安心感を得ることができると、そこから自分の自信が生まれるのだと思ってきた。
――人を怒らせて安心感を得ることができるのであれば、嫌われてもいいから、相手を怒らせる方を選ぶ――
と、子供の頃は思っていたのに、大人になると、そんな勇気も持てなくなってきた。
――やっぱり子供の頃の方が勇気があるし、自分に自信を持つことを容易にできたのかも知れない――
と思うようになった。
駅のホームで電車が滑りこんでくるのを毎日のように見ていると、今から思えば見慣れてくるうちに、少しずつ自分に自信が持てなくなってきたのではないかと思うようになってきたのだ。
「私、あなたといると、安心できるんです」
数日前に喧騒とした雰囲気になり、お互いにギクシャクしてしまって、話ができない状態になっていたゆりかとの間だったが、ゆりかの方が、折れてくれた結果になった。
相手に折れられると、こちらも意地を張る必要もない。こんなところで意地になっても仕方がないことは分かっている。やはり、二人が出会ったのは、偶然ではないと思えてきた。
「安心というのは、どういうことなんだい?」
「この間、私の無神経な発言が、あなたを傷つけたように思えてくると、私はいたたまれなくなったんです。でも、すぐに謝ろうとはどうしても思えず、もう一度自分を振り返ってみたんですね」
「それで?」
「すぐに寂しさがこみ上げてきて、それは、博さんがいなくなった時の寂しさとは少し違っていたんですけど、でも、もうこれ以上寂しい思いをしたくないという衝動に駆られて、またあなたのことを元に戻ってきました。あなたが迷惑じゃなければ、また私をそばに置いてくださいますか?」
「もちろんだよ。迷惑だなんて思っていないさ」
ゆりかの表現には、どこか棘を感じたが、意地を張ることをやめようと思った昇には、ゆりかの正直な言葉が嬉しかった。嫌われるかも知れないと思いながら、もう一度自分から来てくれたのは、ゆりかの正直な気持ちからだと思ったからだ。
「嬉しいです。でも、これからもわがままを言ったら、その時はごめんなさいね」
「それはお互いさまさ。俺だって、変な意地を張るかも知れないからね。でも、これからもお互いに気持ちに正直になっていきたいものだね」
昇のその言葉を待っていたのだろうか。ゆりかの目から、涙が零れてくるのを感じた。
「私、男性の前で涙を見せたのは、これが初めてなんです」
ゆりかの言葉は意外に感じた。
――そんなに感動するような話をしているのかな?
最初は、ゆりかの正直な気持ちに素直に喜びを隠せなかった昇だったが、涙を流しているゆりかを見ていると、少し不思議な感覚を覚えた。
ゆりかが、わざとらしいというわけでもない。どちらかというと、昇の感覚が急に冷めてきたと言った方がいいのだろうか。
――本当なら、自分の目の前で涙を流してくれる女性がいるのだから、男冥利に尽きると思ってもいいはずなのに――
と、思えた。
今までの昇なら考えられない冷め方だった。女性と話をしていると、相手の方が自分よりもいつも立場が上だったように思うからだ。それは、
――俺の方が、男として立場は上なんだ――
と思えば思うほど、相手の女性と対峙していると、どうしても、相手よりも上に行くことができない。
ただ、今回は逆だった。
ゆりかは、一度は喧嘩別れのようになったのに、戻ってきてくれた女性である。そんな女性に対して、自分が上などというのは、おこがましいと思っていた。それなのに、涙を見せたという最高のシチュエーションに立っていながら、なぜ冷めてしまう結果になったのだろうか。
わざとらしさなど微塵も感じていないはずなのに、やはり、問題はゆりかにあるわけではなく、昇の方にあるのだ。
冷めた瞬間、
――これって、本当に俺なんだろうか?
という思いが頭を擡げた。そこにあったのは、「嫉妬」だったからだ。
――俺が一体、誰に対して、誰からの思いに嫉妬しているというのだ?