二度目に目覚める時
それまで、目に焼き付いている黄色が次第に晴れていく。トンネルの中での記憶は黄色しかなかったのだ。ということは、トンネルの中にいたのは自分一人でしかない。もし、他に誰かがいたとすれば、その人は完全な黄色ではなかったはずだからだ。
確かに、限りなく黄色に近い色だったに違いないのだが、黄色ではないはずだ。もし、そうだったとすれば、その人の存在に気付くはずはない。
――鬱状態じゃなかったら、きっと気付くんだろうな――
と、感じた。
妄想の世界で、何を感じようとも、すべて根拠のないことで、信憑性などありえない。自分を納得させられるはずもないからだ。
昇は、そんなことを感じながら、鬱状態から見えるトンネルの出口。そこにレインボーが見えた時、そのレインボーは夜の静寂の中で咲いているネオンサインのようなものだということを分かっていた。トンネルの出口が「夕凪」であるという、これも信憑性のない思いがあったからだ。
昇の躁状態はいつも夜から始まる。日が暮れてからの時間は、昇には結構長く感じられた。
気が付けばまもなく午前零時、本当に一日を終わることができるのだろうか?
躁鬱症にかかっている時は、最初にそれを考えた。ただ、一日という単位は、躁鬱症にかかっている時の昇にとっては、二十四時間ではなかった。自分が躁鬱症を繰り返している間に感じる感性としての一日、だから、同じ一日でも長さや感覚が普段とまったく違っていたのだ。
そんな思いは、しばらく続いた。一年経って躁鬱症がなくなっても、しばらくの間、感じていた。だが、その頃には、一日という感覚ではない、
――堂々巡りを繰り返している単位――
のことだったのだ。
躁鬱症がなくなったのに、どうして堂々巡りがなくならないのか、その時の昇には分からなかった。
――夕凪の時間を意識しなくなるわけではなかった――
というのが、本当の理由なのだが、すぐにはそのことを分からなかった。夕凪の時間を意識しているのは、どうしてもその時間から逃れられないという思いがあったからだ。雨が降る日であっても、夕凪の時間を意識してしまう。それだけ、身体に時間という感覚が沁みこんでいたからなのかも知れない。
躁鬱症というのは、昇には一過性のもののように思えてきた。中学時代に一度、高校時代に一度、それからは二十五歳になるまでの間に一度も起こっていない。躁状態のように何もかもがうまく行っているような時期が少しだけ存在したり、鬱状態のように、何をやってもうまく行かない時期があったりすることがあったが、躁鬱症とは無関係だった。その意識他の人には分からない。それは、一度でも躁鬱症を自分の中に意識した人間でなければ分からないことだった。
躁鬱症から時間が経ってしまうと、自分が躁鬱症に陥ったことがあるという意識も次第に薄れてきた。躁鬱症を意識すれば、その時のことを思い出すのだろうが、意識しないと、自分がかつて躁鬱状態に陥ったことがあるということすら、分からなくなっているほどだった。
昇が同じ日を繰り返しているという発想になったのも、躁鬱症の時に感じた、
――逃れることのできない堂々巡り――
という感覚だけが、残っていたからなのかも知れない。実際に躁鬱症になったということすら覚えていないことから、同じ日を繰り返すということと、自分の今までの実体験を結びつけることができないのだから、それだけ高校時代から今までの間に、かなりの時間が掛かっていたということだろう。
――時間の問題なんだろうか?
距離にしても時間にしても、長ければ長いほど、記憶から離れていたり、意識から離れていたりするという発想は、自然と頭の中に入っているものだと思っていた。
しかし実際は、必ずしも、そうとは言えないことが起こっているにも関わらず、頭の中に残っている発想が邪魔をして、すぐには納得できないでいたのだ。
この場合の納得とは、承服とも言えるだろう。ただ、納得と承服とでは、似たような言葉でも、ニュアンスが違っている。
――納得というのは、自分ですることもできるが、まわりからさせられることもある。しかし承服は、まわりからさせられるもので、自分でするものではない。自分でするものだとすれば、それこそ納得なのだ――
と、思っていた。
納得することは、汎用性があるが、承服することは、相手からの一方的なものだ。それだけ承服しなければいけないものというのは、潰しの利かない、確固たるものなのではないかと思える。
しかし、納得することは、汎用性があるだけに、いくらでも解釈ができる。そういう意味では自分に納得させるには、少し形を変えることも致し方ないと考えることもあるだろう。それが、本来の意味と違ってしまっているかどうか、分からない。そういう意味では、簡単そうに見えても、自分で納得することほど難しいことはないのかも知れない。
同じ日を繰り返しているのを、午前零時を過ぎてすぐに気付かなければいけないということを、どうして自分で納得できたのかということが、今でも疑問だった。何ら根拠のない信憑性のないものをいかに納得させるかというのは、本当に難しい。
昇は、自分で実際に触ったりしたものではないと信じないというところがあった。それなのに、妄想は人一倍で、妄想したことを自分の中で幾度となく納得させてきた。それができたのも、
――納得させるには、少しくらい納得させることを自分なりにアレンジしてもいいんだ――
という発想を持っているからこそ、できたことであった。
二十五歳という年齢になってくると、自分が子供ではないが、大人になりきっていないという意識がまだ残っている。その意識が自分を納得させることに対して、
――まだ、自分は甘いかも知れない――
という意識を持たせて、中途半端な意識が、一日を繰り返しているという発想を生んだのかも知れない。
同じ日を繰り返している発想から抜け出すには、どうしても、自殺菌の発想が頭から離れない。
「同じ日を繰り返している人が、そこから抜け出すには、死ぬしかないんだ」
と、同じ日を繰り返している人は考えているが、それは、まるで同じ日を繰り返すことでノイローゼに陥り、最後は最悪の考えを持って、結論づけるしかないと思っているからであろう。
その考えに導くのは、死ぬことを相手に承服される「自殺菌」の存在が必要不可欠になる。ただ、少しでも自殺したいと思っている人が罹るのが自殺菌だとするならば、同じ日を繰り返しているだけの何の罪もない人に対して、自殺を強要するようなことになるのは、ルール違反ではないかと思うのだった。
――だけど、本当にそうなんだろうか?
昇は少し違う発想を持っていた。
――同じ日を繰り返していると思っている人は、もし、同じ日を繰り返していなくても、近い将来何らかの原因を持って、自殺することになる人なのではないだろうか。そうだとすれば、少し自殺するのが早まっただけで、決して自殺菌だけを悪く言うというのは、筋違いなのかも知れない――
という考えだった。
さらに、これも昇の考えだが、