二度目に目覚める時
しかし、昇が菌の発想に関しては、無理のないことだと思うが、それが誰かの手によるものだというのは、飛躍しすぎだと思うのだった。その間には目に見えない境界線のようなものがあり、ひょっとすると、境界線を超えて発想できる人は、限られているのではないかと思うようになっていた。
確かに発想には、誰にでもできるものと、一線を超えてしまうと、限られた人にしかできないものがあるというのは、昇も感じていることだった。しかし、発想し続けていくと、留まるところを知らなくなるのも昇であって、境界線を超えるのは、そんな「勢い」のようなものは必要なのだろうと感じていた。
だが、「勢い」はその時の雰囲気から自然に生まれたものではなく、突発的なものでなければいけないという思いもあった。
――「突発的」というよりも「偶発的」だと言った方がいいかも知れない――
昇は言葉を選ぶことで、頭の中を整理しようと思っていた。実は今までの昇からは考えらえないことだった。
昇は結構いろいろ突飛な発想をすることが多かったが、その時に自分に言い聞かせる言葉についてはいい加減なところが多かった。
――分かればいいんだ――
という程度のもので、言葉の意味がどうであれ、自分が納得できればそれでいいと思っていた。それなのに、今回は言葉を選んでいる。それだけ、自分の中に感じた、
――忘れてしまっている肝心なこと――
に対しての意識が強いのだろう。
思い出すには、少し怖い気がしていたが、それでも、どこかで思い出すことになるのだろうと思っている。偶発的に思い出すのではなく、それなりに心の準備ができていなければいけないのであれば、今のうちから意識しておこうというのは、昇だけに限らない、
――人間の心理――
なのだろう。
昇は自分の中で、
――一日を繰り返している――
と、自分の中で感じたことがあったのを思い出していた。それがいつのことだったのか分からなかったが、そのことが、忘れてしまった肝心なことに繋がっているのではないかと思うようになっていた。
ただ、昇が意識していたのは、
――一日を繰り返している――
というもので、
――同じ一日――
という言葉がついてこなかった。もし他の人に言えば、
「同じことじゃないか」
と言われるのだろうが、昇はそうは思わなかった。
「一日という言葉の上に『同じ』という言葉を付けずに発想したというのは、同じ一日だとは思っていないということなんだ。もし、同じような一日を繰り返したとしても、どこかに違うところが絶対にあるはずで、それを見つけることができれば、次の日は新しい日になると思うんだ」
何やら禅問答のようだが、昇はその発想を捨てきれないでいた。
「一日が決まった時間に思うんだけど、ひょっとしたら、毎日少しずつ違っているのかも知れないというのも俺の発想なんだ。結局、俺の発想は留まるところを知らないことになるんだな」
というだろう。
一日が同じ時間ではないという時点で、同じ日を繰り返しているとしても、「同じ日」ではないのだ。つまり、そのことに気が付いた時点で、次の日への扉は開かれたことになる。それが昇の発想だったのだ。
日が変わった瞬間に、同じ日を繰り返しているという発想を、抱かなければ何ら問題がないはずなのに、どうして気が付いてしまうのだろう。
もちろん、毎日を繰り返している人が、最初からその思いに行きつくはずもない。何日の同じ日を繰り返して、
――自分は、同じ日を繰り返すという世界から、永遠に逃れられないのだ――
と感じた時、やっと、そのことに気付くのかも知れない。
しかし、気が付いた時には、すでに堂々巡りに慣れきってしまっていて、新しい発想をすることができなくなっているのだ。
自分が感じていることに対しての発想はできるのだが、この状況を打破しようとする発想には至らない。堂々巡りが邪魔をするのだろうが、この時も、何らかの菌が邪魔しているのかも知れないと思うと、同じ日を繰り返していると思っている人の気持ちが、分かっているように思えて分かっていないことに気付かされる。それが、発想する上で存在していると感じている「境界線」によるものなのだろう。
昇は、自分が一日を繰り返していたと思った時のことを思い出そうとしてみた。しかし、思い出すことはなかなかできなかったが、その頃のちょうど、何かに悩んでいたのを思い出した。
――俺は一つのことに集中すると、他のことを考えることができなくなるからな――
物忘れが激しいのも、そのことが一番の原因だと思っている。さらに、集中していることに悩みや迷いが発生すると、その感覚はさらにひどくなり、覚えられないどころか、
――すべてを忘れてしまいたい――
と思うところまで発展してしまうことが多かった。
今でこそなくなってきたが、中学時代から三年くらい前まで、
――俺は躁鬱症なんだ――
と思うようになっていた。
その根拠は、定期的に落ち込むことが多かったことや、落ち込み始めると、まるでアリ地獄のように抜けられなくなることが最初から分かっていたことによる。そのうちに、いろいろなことが分かっていると、
――これが俺の中の躁鬱症なんだ――
と思うようになった。
躁鬱症というのを意識するようになったのは、最初からではなかった。ある日突然、
――俺は躁鬱症なんだ――
と感じたのだ。
まず、急に疲れやすくなったことが一つで、身体もそうなのだが、一番感じたのは、目の疲れだった。
目の前に見えているものが、急にハッキリと見えるようになった。
――本当なら逆なんじゃないか?
と思われるのだが、
今までは信号の青を緑色のように見えていても当たり前のように感じていたのに、目に疲れを感じるようになると、真っ青に見えてくるようになった。
――きっと疲れている目で、一生懸命に見ようとしているからに違いない――
と思った。
確かにその傾向はあったに違いない。
特に夕方に疲れを感じるようになる。
それまであまり感じたことのなかった「夕凪」の時間を意識するようになったからだ。「夕凪」というのは、夕方から夜に変わるまでの限られた時間、風がピタッと止む時間のことをいう。実際に意識していなかった時は、
――風が止む時間があるなど信じられない――
と思っていた。
暗くなりかける時間の方が、風が吹いている感覚が強かったからだ。
実は、それは雨の日との錯覚であり、雨の日の薄暗い時に吹いてくる風を夕方の風と同じように思っていたからだった。確かに似ている時間なのだが、雨が降る日と夕凪とではまったく違ったものだ。それを混同しているというのは、自分が意識しているもの以外に関しては、ほとんど、記憶していないということを表していた。
躁鬱症の時、一番鬱病の悲哀を感じるのは、「夕凪」の時だった。夕日が沈む前の時間というのは、消え入る蝋燭が、最後の力を振り絞って灯ろうとするのを感じさせる。一日の疲れを一番感じさせる時間でもあるだけに、そんな感覚を感じるのに、風が吹いてこないのは、とどめを刺されたような感覚に陥ってしまう。