短編集21(過去作品)
仕事が忙しいというよりも、「夜の仕事が忙しい」のだ。営業で行くと、どうしても得意先の支店長クラスとの商談になる。すると決まって接待をしてくれるのだが、福岡では、さしずめ中洲あたりになるのだろうか。西日本一の歓楽街というだけあって、雑居ビルにスナックやバーなどが、ところ狭しと店を構えている。
接待も仕事のうちなので、本当はあまり好きではないが、仕方がない。甘んじて受けるしかないのだが、そんな気持ちのウンザリした中で気持ちを潤してくれたのが「屋台のラーメン」だった。
屋台は中洲の際を流れる那珂川のほとりに軒を連ねて並んでいるが、ほろ酔い気分の火照った身体を癒すにはもってこいだった。寒い時など、ラーメンのいい匂いが鼻腔を刺激し、食欲をよみがえらせてくれる。他のものは何も入らないと感じるくせに、匂いを嗅いだだけで不思議とお腹の虫が鳴った。
そんな時私は、
――懐かしいな――
と最初に感じる。半年振りの福岡出張であっても、屋台の暖簾を潜る瞬間に、
――昨日も来たような気がする――
と感じるのだ。
ホッと一息ついて、出されたラーメンを一口食べてみる。
「ふぅ」
溜息のような吐息が無意識に出てくるが、その瞬間、もう一人の自分が出てきた気がする。表がいかに寒くとも、屋台のとんこつスープの匂いが充満した湿気は、それだけで暖かさを与えてくれる。
――暖かさを感じる時にもう一人の自分が出てくるのかも知れない――
しかし、もう一人の自分の存在を感じたあとの私の中にいるのは、果たしてどっちなのだろう。何かに包まれたような安心感がある。母親のお腹の中にいる時に浸かっている羊水が安心感を与えてくれているというが、浮かんでくるのはそんな雰囲気ではない。もっと淫靡なものだ。
暖かく潤ったものに包まれて、その感覚が次第に麻痺していく。風呂に浸かった時に、最初熱いと感じたあとでも、じっとしていれば熱くなくなっていくような、そんな感覚に似ている。風呂では自分の手で湯を混ぜてみて、熱さを程よく感じるが、それはもう一人の私が欲していることなのかも知れない。
――包まれたまま、じっとしていたい――
と、ここまでは私の考え、それでは満足できないのがもう一人の自分……。
良子のことが頭を掠める。
普段はまったく思い出すことのない良子なのだが、ふとしたことで思い出す。いつも、
――どんな時に思い出すのだろう――
と、思い出した後に、どうして思い出したか考えるのだが、分からない。思い出したその瞬間だけ分かっているのであって、その後は意識の外に追いやられてしまう。この私と一緒に……。
私が自分に戻った時には、良子の身体の感覚だけが残っていて、良子に対して感じたことは記憶の奥に再度封印されてしまうようだ。
そういえば、良子に言われた言葉で一つだけ覚えているのがあった。どういう意味だろう?
「あなたは、自分ひとりでも生きていける人」
その自覚はまったくない。きっとその時、私はかなりな勢いで否定したのではないだろうか。そう思われるのは心外だと思うからである。
彼女とベンチに座っただけで、身体に良子の感覚がよみがえってきたようだ。そして良子に言われた言葉だけが、耳の奥で反芻を繰り返す。
「今回の旅行は一人旅ですよね?」
「ええ、そうです。私が旅に出かける時というのは一人が多いんですの」
女性の一人旅というのも珍しい気がした。
「珍しいですね。女性の一人旅の方に出会ったのは初めてです」
「そうでもありませんよ。私の知っている方たちは、結構一人旅が多いらしいですよ。でも、まさか私が一人旅をするようになるなんて、思いませんでしたけどね」
そう言って苦笑する。思わず、
――触れてはいけなかったかな?
と感じた。
女性の一人旅というのは傷心旅行かも知れない。好きな男の人と別れて、それを忘れるための旅行。女性の一人旅を思い浮かべてどこか影がある女性しか思い浮かばないのは、イメージが傷心旅行としてしか考えられないようになっているからではなかろうか。
しかし、それならそれで聞いてみたいという好奇心も頭を擡げた。
「失礼ですが、傷心旅行ですか?」
思い切って聞いてみた。気になったことは聞いてしまわないと気がすまないタイプだが、初対面で、しかも旅行先、わざわざ聞くこともないはずだ。しかし、彼女とはこれからもどこかで会うような気がしている。そのためにはここで聞いておかなければ後悔すると考えたのだ。もし、ここで心象を悪くして嫌われたのなら、それはそれで仕方がない。割り切ることもできる。
「傷心旅行……。ええ、少し違いますわ。実は私、未亡人なんです」
どう見ても年齢的には二十代前半である。それで未亡人とは、一体いくつで結婚したのだろう? いや、それよりも夫婦生活があっという間だったことが想像できる。
「こ、これは失礼しました」
「いえ、主人が亡くなって一年になりますから。主人の実家とお墓が福山にありますので、ちょうど、一回忌を済ませて、前から寄ってみたかった尾道に足を伸ばしたんですよ」
「そうでしたか。尾道はいいところですからね」
「ええ、ここに来ると新しいこれからの自分の生活が見えてきそうに感じられました。やっぱり来てよかったと思います」
この女性は新しい生活を見つけようとしている。その中で自分を発見していくだろう。亡夫とのことを忘れることはできないだろうが、これからの人生をそれだけに費やすのはあまりにも気の毒だ。
「新しい自分を見つけられるといいですね」
「ええ、でも新しい自分って、今の私の中にいるような気がしているんですよ。時々思うんです。主人とは、一年と少しの結婚生活でしたが、短いとは思いません。さすがに亡くなった時は、本当にあっという間だったと思ったのですが、後になればなるほど、その時間が長く感じられるようになってきたんですよ。思い出になってくることって、極端ですね。次第に短く感じることもあれば、長く感じることもある。私は思い出という時間を長く感じるようになっているんです」
話を聞いていて納得できる気がしてきた。私にも同じようなこともある。
夢を見ている時間というのはあっという間らしい。目が覚める瞬間は覚めきるまで、
――次第に増えていく時間――
だったりするのだが、目が覚めきってしまうと、今度はあっという間だったと感じるのだ。目が覚めきる前と後とではどんな違いがあるのだろう?
――遠近感が違うんだ――
漠然とであるが、覚めきってしまってからは、遠い過去に思えてくる。しかし、覚めきるまでは半分夢の中を彷徨っていて、すぐそばが夢の世界であるかのような錯覚のまま、目が覚めるのだ。
「きっと、ご主人さんとの間がとても近かったんでしょうね?」
「ええ、そうなんです。最近特にそのことを感じます。短かったけど同じ時間や空間を過ごした記憶、すぐそばにあった気がするんですよ。だから、日に日に一緒にいた時間を長く感じ、時間が増えているような錯覚に陥るんでしょうね」
どうやら、彼女も同じことを感じているようだ。
彼女は続ける。
「でも、それじゃあいけないんですよね。大切な思い出だけにしておかないと、先には進めない」
作品名:短編集21(過去作品) 作家名:森本晃次