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短編集21(過去作品)

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「山ってこんなに近くにあったんだね」
 私がそういうと、おにいさんは頷いた。
 麓まで来ると、次第に道の傾斜が激しくなり、今まで綺麗だったアスファルトの道が舗装されていない山道へと変わってくる。前を見ながら足元を気にしていると、気がつけば山の中腹まで来ているのである。
「少し休憩しよう」
 おにいさんがそう言って、休憩できる場所を探すと、ちょうど小さな広場に出てきた。川が流れていて、触ると冷たい。まるで真冬の冷たさだ。
「冷たいね。飲めるのかな?」
「やめた方がいいよ。いくら山の水とはいえ、汚染物がないとは言えない」
 そう言ってお互いに持ってきた水筒のお茶で喉を潤した。
「山の中ってこんな風になっているんですね」
「君は初めてかい?」
「はい、少しきついですけど、楽しいですね」
 そう言って、さらに上を見上げるが、森ばかりで、上の方がよく見えない。
「まだ半分くらいだよ」
「そうなんですか? ここから見ていたら、もう頂上に着いたような気分になりますね」
「それは錯覚だね。ここは森に囲まれた中の小さな広場だからそう感じるんだよ。そう、ちょうど出発地点から山を見上げた時の気分に似ているかな?」
「どういうことですか?」
「山って遠くから見るから綺麗なんだよ。中に入ってみると、少し幻滅するだろう?」
「ええ、少しですね」
「うん、正直でよろしい」
 おにいさんはニコニコしている。
 確かに朝ここを見上げた時に見た光景と、実際に入ってみたのとでは、かなりの違いがある。雲ひとつない快晴だったこともあって、空の青さと木々の緑がとても見事なコントラストを描き出していた。さらに小さく見える木々の間にできた影が、立体感を表わしていて、堂々としたイメージに見えている。
「動かざること山のごとし」
 まさしく風林火山である。
 温泉に浸かって星を見ていると、山で感じたことを思い出した。
 近くにあるのに、登山を始めるまであまり気にしたことなどなかったこと、そして実際に登ってみると下界から見る風景と、中に入って感じる風景とに差があること。差があることなど考えてみれば当たり前で、
――今さらながら思い知った――
 というのが本音だった。
――麓くらいまで行ってしまうと、山に入ったことになるんだろうな――
 と感じ、まわりが登山ルックの人々だらけなのも、いよいよこれから山に登るという自覚を与えてくれる。
 星空も、今日は綺麗に見えているが、一旦雲がかかってしまうと、いくら綺麗であっても見ることはできない。あれだけ綺麗に煌いていても、汚い空気の中で見ると淀んで見えるだろう。いつも見ている星空が淀んでいるかどうかハッキリとは知らない。しかし今見ている星空は、
――まるで星が降ってきそうな錯覚に陥る――
 そんな星空である。煌く星が立体感を生むのだ。
 いくら都会の淀んだ空気とはいえ、星空は存在していた。たまにであるが、歩いていて空を見上げることがあった。そんな時は決まって綺麗に星が出ている。
――綺麗だな――
 と漠然と感じることもしばしばあった。
――私が気にしていなかった時の空って、どんな星空だったんだろう――
 普段と変わらず星が出ていたような気がする。空を見上げるのは私一人の気まぐれであって、それに空がいちいち付き合ってくれるはずもない。いや、私などに関係なく、いつでも星を映し出しているような大きな存在であってほしいと感じる。
 星空を見上げながら湯船に浸かっていると、時間が経つのを忘れてしまう。下界に視線を移すと、最初はすべてが小さく感じられるほど遠近感がおかしくなっているが、それも一瞬で、すぐに距離感が戻ってくる。それは昼間晴れている時にじっと見ている時の山と似ている。
――旅というのは、いいな――
 自分を顧みるには最高かも知れない。
 今まで感じていたことを、違った角度から再認識することができる。環境が変わったからといって、ここまで再認識できるだろうか。それはきっと自分探しが旅の目的だと、自分なりに認識しているからに違いない。
 温泉から上がって部屋に戻ってゆっくりとしていた。そのうち食事の時間となり、食事を済ませる。
 温泉に浸かり、美味しいものを食べる。旅の一番の醍醐味だ。しっかり堪能したが、まだそれだけでは物足りない。目的意識がしっかりしているからだろう。
 だが、目的といっても、漠然としすぎている。一人で自分を見つめるための静かな旅なのか、それとも出会いを求めたい積極的な旅にしたいのか、まだハッキリと掴めていない。夜風に当たりながら夜の公園を散歩することは、どちらが目的でも私にとって自分探しになるような気がする。
 さすがに湯船に浸かって見ていた空とは少し違う。
――やっぱり地球って丸いんだ――
 歩きながら見ていると、まるで星が私についてきているようだ。
 地球が丸いということが頭にあるので、ついてくる星を見ると再認識するのであって、昔の人は天空にいろいろな思いを馳せていたのだろう。偉人が亡くなって、それを神話として語り継ぐために天空の星座になぞらえたのも分かる気がする。天空というのはいつまで経っても不変で永遠なものである。
「形あるものは、必ず壊れる」
 という、下界の法則がまったく成り立たない。
――なんかちっぽけなことばかり考えているんだな――
 思わず苦笑してしまった。
「あら?」
 天空にばかり気を取られていたので分からなかったが、ドキッとして声のする方を見つめた。目の前にベンチがあり、そこに一人の女性が座っているのが分かったが、一瞬どこかで見たような気がしたのに、すぐには思い出せなかった。
「何が見えますか?」
 そう言って彼女は空を見上げた。
「あ、確か、志賀直哉記念館でお会いした方ですよね」
 やっと気付いた。
「ええ、そうです。またお会いできて嬉しいですわ」
 志賀直哉記念館にいたのが、たった今だったような錯覚に陥っていた。
 とりあえず、近くにあるベンチに腰を下ろした。記念館で見た時とは少し赴きが違うのは、やはり夜見るからだろう。明かりと言えば街灯が点いているだけ、しかしその間隔は思ったよりも狭く、多方から光が当たって、影が放射状になっている。
「どちらからいらしたのですか?」
「私は九州からです。あなたは?」
「僕は東京からです。埼玉ですけどね」
 東京と言ってすぐに埼玉と付け加えた。九州の人に埼玉と東京の違いを言っても分からないだろう。
「都会なんですね?」
「ええ、まあ、そうですね。九州はどちらですか?」
「私は福岡です。市内ですよ」
 私は福岡には何度か出張で行ったことがある。空港が思ったより都心に近く、飛行機が旋回するたびに都心部のビル群が近くに見えた。
「いいところですね。屋台のラーメンなどいいですね」
「来られたことがあるんですか?」
「ええ、出張でね。でも、他の思い出はあまりないですね」
「大変なお仕事なんですね」
「ええ、まあ」
 私は言葉を濁した。
作品名:短編集21(過去作品) 作家名:森本晃次