短編集21(過去作品)
この思いがさらに強くなった。私は良子と身体を重ねた時、良子のすべてを知った気がした。そして、
――すべてを知った瞬間から、恋人同士になれるのだ――
と結論付けたはずだった。相手の身体を知ることが、すべてを知ったことにならないのだろうか? その疑問によって私は自問自答を繰り返す。
それから半年、良子のことが忘れられなかったが、立ち直った後も、結論が出たわけではなく、さらなる自問自答を繰り返す。
しかし、立ち直るとそれほど大きな問題ではないように感じてくるのが不思議だった。
それからもさらに旅行に出かけ、数多くの女性と知り合った。なぜか積極的になれない私は、友達になっても、身体を重ねることをしなかった。中には自分の好みの女性もいただろう。連絡先を聞いて、旅行から戻って待ち合わせをした女性もいた。しかし彼女たちとは身体を重ねることはなかった。最初から友達のような意識があったからに違いない。彼女たちとは数年経った今でも連絡が取り合える友達として、いい関係でいるのだ。
彼女たちにオンナを感じることもあった。夕食をともにして、チラリと見せる妖艶な雰囲気にドキリとしたこともあったが、抱こうとは思わなかった。女性を抱きたくないわけではない。私も一人の男なのだ。性が私を誘惑することもあったが、まるで他人事のような自分に驚かされている。
「何でも話せて頼りになる人です」
自分に対してどういう感情を持っているか、一人の女性に聞いたことがあった。すると彼女は迷うことなく、あっさりと言ってのけたのである。友達としては、最高の褒め言葉。その言葉を待っていたような気もする。それを言われてしまっては、男としての性が顔を出す場面はなくなってしまうだろう。
しかし、それでもよかった。心の中での私が彼女を抱きたいと思っているのは事実なのだが、表に出てくることはない。きっと、今は良子を好きだった私と違うもう一人の私が顔を出しているのだ。
そんな気持ちの中で私は学生時代が終わった。
学生時代にもう少し遊んでおけばよかったかな?
それはオンナに関して感じたことである。卒業した私は、不安と期待の渦巻く中、何とか就職もできた。時代が時代なので、期待よりも不安が膨大に多かったが、それでも就職できただけよかったのだろう。不安は卒業が近づくにつれて、次第に大きくなっていく。学生時代での後悔が不安を大きくしているようだった。
その後悔の中に良子のことは含まれていなかった。良子とのことはすべてが「過去」になってしまっていて、思い出しても不思議と怒りがこみ上げてこない。まだ疑問が解決していないにもかかわらず、良子を抱いてから後、他の女性を知らないことが後悔なのだ。
――知る機会を自らみすみす逃した――
という感覚が後悔に結びついている。
――怖いのだろうか?
怖いとすれば何が怖いのか、それすら分からない。考えれば考えるほど奥があり、考えることを躊躇わせる。
会社に入ると、しばらくは仕事に没頭した。覚えなければならないことが山ほどあったが、それも苦にならないほど、毎日が充実していた。営業の仕事なので、すべてを理解しておかなければならず、最初の半年間ですべての部署をとりあえず経験した。
家に帰っても会社から与えられた本で商品知識を勉強した。もっとも会社で聞いた話の復習のようなものなので、サラリと読むだけでも勉強になる。ある程度覚えてくると、お得意先まわりを先輩とするようになるが、初めて他の会社の事務所に行くと、いやでも受け付けの女性が目に入り、今まで気にしていなかった女性というものに対しての思いが、少しずつよみがえってくるのを感じていた。
しかし相手は得意先、しかもまだ先輩の同行程度である。声を掛けることはもちろん、話す機会もないだろう。
夏休みは大人しくしていたが、冬休みはどこか旅行に出かけようと計画していた。幸いにも休みは他の会社よりも少し早めにやってくるので、計画も立てやすい。どこか気に入ったところで正月を迎えるのもいいものである。特に何もすることのない正月、旅行なら有意義に過ごせそうだ。
「そうだ、瀬戸内地方に行こう」
岡山から倉敷、尾道、広島と巡るルートを考えていた。特に行ってみたいのは尾道である。
瀬戸内地方には行ったことがなかった。九州や北陸は多かったのだが、きっと、温泉を気にしていたからだろう。今回瀬戸内地方を考えたのは、芸術色豊かなところをと考えていた時、会社の人から、
「それなら倉敷、尾道あたりもいいんじゃないか」
と聞かされたからだ。
倉敷の美観地区には、大原美術館を始めとした美術関係、尾道は作家ゆかりの文学の里としての赴きがあるという話である。
「俺は推理小説のファンだからな、あのあたりを中心にしたミステリーをよく読んでいたよ」
とも聞かされた。さっそく買ってきて読んでみたが、なるほど、岡山を中心に書かれている。しかし時代背景は戦後すぐくらいで、それが却って豊かな発想を私に植え付け、是が非でも見てみたい衝動に駆られた。
――やっぱり本を読んでいて正解だったな――
岡山市内を観光し、その足で伯備線に乗り込み、城下町である備中高梁や、さらに新見の近くにある伊倉洞にまで足を伸ばすと、小説世界に引き込まれた気分になり、私に時代をさかのぼらせる。特に備中高梁に現存する備中松山城は、歴史も古く、じっくりと見てまわれるところだった。伊倉洞にしても、歩く距離もさることながら出口が山の上という立体感にも驚かされた。映画の舞台としても有名なこの二つの名所は、尾道のように観光化されていない素の街並みを見ることができる。
倉敷で一泊し、さらに西に向って電車で約一時間と少し、尾道に到着した。ここは後方に山が聳えており、目の前には海という実に狭いところに佇んでいる街である。観光地であり、漁村としての生業がある尾道は、実に坂の多い街である。
実際に泊まるホテルも山の上、駅について、少し歩いてロープウェイの乗り場まで行くと、そこから千光寺のある山頂へと登った。
とりあえず、宿に荷物を置いて少し観光してみることにした。まず最初に訪れてみたかったのは、志賀直哉氏の記念館であった。
「暗夜航路」、「城之崎にて」で有名な志賀直哉氏は尾道で生活したこともあり、ここでは彼の旧家を再現していたり、執筆原稿が展示されている。見ているだけで、大正時代にタイムスリップしたかのようで、ガラス越しにじっくりと原稿に見入っていた。
「あ、すみません」
私があまりにも原稿に見入る時間が長かったのか、隣に女性が迫ってきているのに気が付かなかった。
「いえ、こちらこそ、見入ってしまっていて気が付きませんでした。ごめんなさい」
「そんな、恐縮ですわ。でも、やっぱり時代を感じますよね」
そう言って、私と同じようにガラス越しの原稿を見つめている。その横顔が光っているように見えたのは気のせいだろうか? ガラスの反射によるものだろう。
――綺麗な顔立ちだな――
作品名:短編集21(過去作品) 作家名:森本晃次