『人権』の名の下に
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三歳児を抱えたまま弁護士の仕事を続ける事は、実際不可能だ。
充はとりあえず近県にある実家に真美と共に移り住んで母親に頼る他なかった、雅美の実家は遠方なので、今の事務所で仕事を続ける限り真美と一緒に暮らす事は出来なくなってしまうのだ、それはとても耐えられないことだった。
幸い、真美は祖母にも良く懐いていたので快く引き受けてくれたが、さすがにまだ精神的に不安定で、突然泣き出したり不安に震えだしたりして手を焼かされることもあるようだ。
もっとも、それは無理からぬことなので祖母も精一杯慰めてくれている様子だが……。
引ったくりは初犯だとなかなか捕まりにくいものだが、雅美を死に追いやった男は再犯であり、ひったくりに使ったバイクが現在は製造されていない珍しい車種だったこともあってすぐに捕まった、事件を目撃して、最初に通報してくれた人がバイクマニアで車種を正確に言い当ててくれたのだ。
犯人の名前は田中勲、二十一歳、いわゆるフリーターで現在は無職。
高校を中途退学してからアルバイトを転々としていた。
やはり自己中心的で、気に入らない事は暴力で解決しようとする性格が災いしての事だ。
無論、被害者遺族である充は裁判には関われないし、事務所もその裁判には関わらなかったが、裁判が始まった時、充は当然傍聴席に居た。
弁護士として、当然刑の幅は熟知している。
引ったくりは六年以下の懲役。
強盗致傷ならば六年から無期懲役。
強盗致死ならば無期懲役ないしは死刑。
充の心情からすれば死刑を望みたい。
しかし、事務所は、そして充自身も一貫して死刑には反対して来た、しかも、これまでの判例からして複数の人間を殺さない限り死刑判決はまずありえないことも知っている。
充は『無期懲役ならば……』となんとか自分の心情と折り合いを付けて裁判の行方を見守ることにした。
しかし、そこで引っかかるのは、つい先日自分が関わった佐藤信行の裁判だ。
自分が懲役二十年を『勝ち取った』裁判、その佐藤と田中の罪を比較してみる。
充は佐藤に殺意がなかった事を、あの手この手を使って主張した。
つまりは、空き巣狙いだけの筈だったが、被害者に見つかってしまい、騒がれて気が動転してしまった、そしてたまたま手近にあった壷を振り回して脅し、その隙に逃げようと考えたのだが、『不幸にも』壷は被害者に当ってしまい、その結果として被害者は亡くなってしまったのだ、故意の殺人ではない、と。
しかし、大きく重い壷で老婆を殴れば死亡する可能性が高い事は容易に想像できる、翻って、田中が雅美のバッグを引ったくった時、転ぶ程度の事は予見できても、それで死んでしまうとは想像し難い。
もし事件が雅美とは無関係で、充が田中の弁護をするならば、強盗致死ではなく強盗および傷害致死を主張して最低でも十五年以下を取ろうと奮闘するだろう、勝ったと実感できるのは十年以下の懲役になる……。
しかし、被害者遺族の側に立つならばとてもその程度の刑では納得できない……そのギャップの大きさに充は愕然とした。
自分はこれまで何をして来たのだろう……と。
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「強盗致死の線はないな」
「そんな……」
裁判を前にして、充は最も年齢が近い先輩の前田と話していたのだが、前田はこともなげにそう言い放った。
「お前の気持はわかるけどさ、田中は奥さんを突き飛ばしたり殴ったりはしていないだろう?」
「それはそうですが」
「傷つける意思はなかったと看做されるだろうな、結果は被害者の死亡という重大なものであってもだな、殺すつもりどころか怪我させるつもりもなかったと判断されると思うよ、あくまで『はずみ』だよ」
「雅美は『はずみ』で死んだ……と?」
「まあそういうことになるだろうな、強盗に傷害致死が加算されて、長くて十五年、短ければ十年ってところだな」
「……」
充は言い返せなかった、それはもし自分が田中の弁護をしていたとしたら目指すだろう刑期と一致するからだ。
「場合によっちゃ過失致死になるかもな」
「そんなばかな、雅美は殺されたんですよ」
「これは殺人じゃないよ、そんなことは弁護士ならわかるだろう? お前は私情に惑わされているんだよ」
前田は、充が事務所に入ったばかりの頃から何くれとなく目をかけてくれて、相談にも乗ってくれた、もっとも親しく信頼して来た先輩だ、その前田をもってしてもこの反応……。
「俺、自分がやって来たことが正しかったのかどうかもわからなくなってるんですよ」
「間違った事はしてきちゃいないさ……さてと、俺は出かけなきゃならないんだ、また夜にでも話そうや」
前田はそう言い残すと資料を詰めた鞄を手にして出かけて行った。
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「私情に惑わされるなんて、俺は弁護士失格ですね……」
その日の午後を暗澹たる気持で過ごした充は、居酒屋で前田と差し向かいになるとそう切り出した。
「私情か……俺たちはあまりにもそれをないがしろにしてるんじゃないかって思う事はあるよ」
前田の態度は昼間の事務所でのそれと少し違っていた。
「俺がお前の立場だったら、やっぱり犯人には最低でも無期懲役を望むだろうな」
「……本当ですか?……」
「ただ、事実を客観的に見なきゃいけないだろうとは思うよ、この事件は強盗致死の条件を満たしちゃいない、やっぱり強盗に傷害致死が加算されて裁かれるのが妥当だ、その田中って奴がどんな人物であってもな」
「そうですね……」
「フリーターだそうだな」
「ええ」
「どうせロクな奴じゃないんだろ?」
「高校は中退してます、その後、バイトを転々としていますが、どれも長続きしてませんね、傷害事件も何度か起こしてます」
「家庭にも恵まれていないんだろうな」
「そこもはっきりした所までは教えてもらえませんが……かなり小さい頃から母子家庭だったようですね、生活保護も受けていたようです」
「ナルホドな、所長が好きそうな人物だ……」
「は?」
意外な一言が飛び出した。
所長は人権派と呼ばれるだけあって被告の人権にうるさい事は確かだが、『好き』とは……?
「『罪を憎んで人を憎まず』とか綺麗事を言っているけどな、所長の持って行き方は『社会が悪い、社会が犯罪者を生み出す』って所に尽きるんだよ」
「……」
それは充も感じたことがある、それをはっきり口に出すことはしなかったが。
「所長はいわゆる全共闘世代なんだよ、学生運動をやっていた事は知ってるだろう?」
「それは所長本人も時々口にしますよね……年齢的にも合いますし」
「相当入れ込んでいたらしいよ、全共闘に限らず、学生運動の目的って何だか知ってるか?」
「革命……ですよね?」
「そうだ、今もそれを夢見ているよ」
「まさか……この時代に?……」
「そう、現実的には不可能な話だ、今は労働組合ですら力を失っているくらいだからな、どうしてそうなったかわかるか?」
「社会が安定しているから……ですか?」