『人権』の名の下に
このケースでは『勝ち』だったとまでは言わないまでも、野球の試合に例えるならば序盤に滅多打ちにされた先発ピッチャーをリリーフしてその後をゼロで切り抜け、味方の士気が折れてしまわないように次の試合に繋げることができた、そんなものだったように思う、それ位の仕事をした実感はある、充はそれで満足だった。
名門大の出身者がずらりと並ぶ司法試験合格者、その中で充の学歴は少々見劣りする、世間一般的には充分に立派な大学と看做されているが、卒業生の大多数は司法の現場には進まない、と言うより司法試験の壁に阻まれて進めないのだ、それでも弁護士や裁判官を目指す者は他大の大学院に進むことが多い、充はそんな大学~大学院の出身、実際、学部卒業時には他大の大学院を志したものの不合格だったのだ。
それを補うべく、充は法律事務所に就職すると、現場で自らをたたき上げた、とにかく裁判の現場に居合わせて先輩たちの手法を学んで行ったのだ。
所長は名だたる『人権派』、所属の先輩たちもその流れを汲む者ばかり。
『人権派』は加害者の人権ばかりを重く見て被害者の人権を軽んじると批判される。
しかし、充の、そして事務所の見解はそうではない。
『罪を憎んで人を憎まず』の精神に立てば、どんな凶悪犯罪を起こした犯人であろうともその人権を侵されるべきではない、その結果、被害者や遺族の感情がないがしろにされる結果になろうとも、それは仕方のないことだ。
『疑わしきは罰せず』の精神に立てば、どのような犯罪を起こそうとも裁判で有罪が確定するまでは容疑者であって犯罪者と確定したわけではない、それ以前に、正式に起訴される前には被告でさえないのだ。
それをもう一歩突き詰めれば、仮に銃を乱射して抵抗しようとも、まだ被告ですらないのだから逮捕に際して傷一つつけてはならない、その結果逃亡を許す結果になってもそれは止むを得ないことだし、逮捕する側の警察官に死傷者が出たとしても、それも仕方がないことなのだ。
全ては法文に記されているままに、感情や状況に左右されてはならない、法文の正当性は司法の場で論じられるべきことではないのだから、法文が全て、法文こそが正義、と考えれば良いのだ。
三十代も半ばを過ぎてようやく司法試験に合格した充だが、いざ法廷に出れば既に充分な経験を積んでいるのと同じだった。
充が所属する事務所では国選弁護人の仕事も積極的に受ける。
法定報酬こそ支払われるが、国選弁護は儲かる仕事ではない、しかも今回の事件のように勝ち目が全くないことも少なくない。
それでも国選弁護人として法廷に立つのは、法こそ正義と言う信念の為、それを世に訴えるため、そして弁護士としての経験を積むためなのだ。
そして、世間からどう言われようとも、充は『法こそ正義』と言う信念を降ろす事はない、それこそが彼が信じるものだからだ。
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「仰る意味を良く飲み込めないんですが……」
裁判が終わり、喫茶店でコーヒーを飲みながら張り詰めていた緊張を解きほぐしていた時のことだ。
警察から電話が入った。
仕事柄、警察官と電話で話すことも少なくないが、この電話は弁護士としての充にではなく、犯罪被害者遺族の充に対してのものだった。
「大変お気の毒ですが、奥様が亡くなられました……」
まるでピンと来なかった。
充は弁護士ではあるが、国選弁護の仕事も多く、半ば修行中の身でもあるのでそう収入が多いほうではない。
司法試験に合格した年に五つ年下の雅美と結婚した。
雅美は、充が司法試験の壁に跳ね返され続けていた頃からずっと応援して支えてくれていたのだ、そして今は三歳の娘もいる。
そろそろ二人目の子供を設けて、いずれはマイホームを、と考えると妻の雅美も働かざるを得ない、それでも雅美は仕事に、育児に、家事にと大車輪の働きをしてくれていたし、充が弁護士として経験を積んで行くのを応援してくれる、全く申し分のない妻だった。
今朝も娘も含めて三人、バタバタと支度をして、それでもにこやかに別れたばかり。
その雅美が死んだなどと言われても全く実感がわかなかったのは仕方がない。
その時発したのが『飲み込めない』と言う言葉だった。
しかし、雅美が死んだ状況を詳しく説明され始めると急に実感が湧いて来た。
人が亡くなった現場の写真は良く目にするし、記録の隅々にまで目を通す事は日常茶飯事、それ故に、そこでその時何が起きたのかは容易にイメージ出来る、ただしその被害者の顔に雅美の顔を重ねることが出来ないだけで……。
しかし、説明が進んで行き、医師の診断内容が告げられている時、いきなり被害者の顔と雅美の顔が一致した、充は背筋を伸ばしていることすらできなくなって椅子から転げ落ち、店員が慌てて駆け寄って来た。
店員が伸ばしてくれた手を押し留めると、ようやく我に返り、タクシーを呼んでくれるように店員に頼むことが出来た……。
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警察のロビーでは保母さんに付き添われた真美がちょこんと座っていた。
まだ何が起きたのかは知らされていない様子だが、押し寄せてくる不安と懸命に戦っているのだろう、充の姿を見つけるとすがるような視線を送って来た。
「大丈夫、すぐに戻るからもうちょっとだけここで待っててね」
そう言いながら頭を撫でて、充は死体安置所に向かった。
あまり気持の良い場所ではないが、充はここには慣れている、ただし、対面する死体はいつでも見ず知らずの人だ、愛し合い、人生を共に歩く誓いを立て、慈しむべき子供も設けた妻の死体ではない。
雅美の死に顔はまるで眠っているかのようだった。
命を失った人間は蝋人形のように見える、それは充が何度も目にして来たものだ、しかし、その肌に触れたことはなかった。
その顔にそっと触れた時、それはまだ柔らかかった……その時、充はそれが蝋人形などではなく、愛する妻の亡骸なのだと思い知らされた。
充が弁護士である事は知らされているのだろう、監察医は死因や死に至る状況を淡々と話す……充はそれにいちいち頷いたが、実際には何も頭に入っては来なかった。
(雅美が……死んだ……、死んでしまったんだ……)
頭の中はそのことを受け入れるだけで精一杯、その死に顔が安らかであることだけが救いだった……。
ロビーに戻ると真美が駆け寄って来た。
充は真美をしっかり抱きとめ、抱きしめた。
真美は頭の良い子だ、それに人の気持ちを良く察することが出来る子だ。
保育所にママが迎えに来てくれなかったこと、その後、次々と幼い真美に降りかかった一連の出来事、そこからママの身に大変なことが起こった事は察していたのだろう、そして死体安置所から戻ったパパの表情から、ママの身に起こったことが自分に取って最悪の事である事を察したのだろう。
火がついたように泣き始めた。
そして、充は真美を慰めてやることすら出来なかった。
充の心の中も三歳児にすら負けないくらいに悲痛で一杯だったから……。