茨城政府
15.侵入
「各国からの反応はありますか?」
午前7時。篠崎は一同を見回す。6時頃配られたおにぎりを食べ終え、多少生気が戻ったかに見えた面々に疲れの色が戻っている。無理もない。ここにいる人間は、仮眠をとったとしても長くて2時間。しかもあれからずっと緊張の連続だった。
県内に4校ある大学、その政治、国際関係、そして外国語の専門家を急遽召集して作成した「独立宣言」は、突如この場に発生した茨城県が戦前の日本、つまり大日本帝国とは無関係であることを強調し、以下の点を宣言した。
・我が国は他のいかなる国とも交戦状態にはない
・我が国は平和的な国際関係を希求する
・我が国は高度な技術力を有しており、我が国に対するいかなる武力干渉も無意味である
・我が国は、世界平和に貢献することを存在目的とする
とにかく、すぐにでも起こりうる米軍の攻撃を躊躇させ、孤立無援な茨城県をどうするか、そこに重点を置いた、いわば茨城県の生存確保のための宣言。日米ともこれを無視していきなり攻撃してはこないだろう。この宣言が届いていれば。の話だが。
「今のところ、反応はありません」
総務部長の笹塚が力無く答える。
「わかりました。笹塚さんは、10時からの公聴会へ向けて、仮眠をとってください。資料は9時半までに整理しておくように川崎部長に頼んであります」
公聴会といってもこの現状を説明された議員からは、不安と不満しか出てこないだろう。紛糾する事が見えている。理論的で、各種規定、条例が頭に入っている笹塚でも苦戦するだろう。何しろ分からないこと、予測不明なことだらけなのだから。
「ありがとうございます」
資料をビジネスバックに入れた笹塚は立ち上がり一礼すると、周囲に頭を下げながら休養室へと向かった。危機対策本部のあるこのフロアには、日頃は各部課の宿直が利用する宿泊設備がある。これらの設備は、有事の際に危機対策本部の関係者が利用できるよう、収容人数を多く設定している。
篠崎は、他のメンバーにも休養を取るように進め、自らも進展があったら呼び出すようにと、辛うじて交代体制がとれている情報担当の職員に託して浴室へと向かった。
*
「ちょっと!なんなんっすか!コレ!嘘でしょ」
NHK水戸支局、涼しげな淡い水色のブラウスにアイボリーのプリーツスカート姿の秋子が声を荒げ、床を蹴るヒールの堅い音が響く。女子アナという言葉を定着させた民放に取り残されてきた公共放送機関で、清楚形女子アナとして最近『地元で』注目され始めた森秋子の本来の姿にディレクターが苦笑いを浮かべる。
「まあまあアキちゃん。せっかくのイメージが台無しだよ」
「イメージって言ったって、あたしゃどうせローカルの女子アナですからっ!」
秋子は、もう一度力任せにヒールを床に叩きつける。
「あー、もう!昨日の飛行機事故で全国デビューのハズだったのになー、っていうか、この記事なんなんっすか?意味が全然わかんないんですけどぉ!ホントにこんなこと言っちゃっていいんですか?」
「そうだよね。いきなりこんなこと言われてもねー。茨城がタイムスリップとか、独立だとか…ましてや空襲警報だなんて」
ディレクター兼デスクの久保が短く刈り揃えたロワイヤル髭の顎を指でさする。何かアイデアを考えるときの仕草。久保のパフォーマンスだと断ずる中年男性も多いが、女性職員たちからはセクシーだと話題になっている
「あっ、」
「えっ?」
指をパチンと鳴らし、まっすぐ秋子を見る久保に、身体を逸らせるように半歩後ずさる秋子。
「アキちゃん、こんなネタ、放送始まって以来のネタだと思わない?」
秋子が体制を立て直したのを待ってから、久保は一歩踏み出して人差し指を秋子の前に差し出す。
「だってさ、放送局が、しかもウチみたいな公共放送が『タイムスリップ』なんてニュースを流すんだぜ。歴史に残るぜー。令和の一大ニュースとして、ことあるごとに必ずこのニュースは放送されるはずだ。何なら令和の次の、そのまた次の年号になっても、『令和の重大ニュース』とか言って放送される」
間違いなく。と頷いて久保は秋子の肩に手を置く。
「アキちゃんは間違いなく令和の顔になるぜ」
「それもそうね」
悪戯っぽい笑顔を浮かべ、キャスター席へ向かう秋子に軽く手を振った久保は、カメラや音声スタッフに振り返って親指を立ててウィンクした。
「1分前ー」
久保の声がスタジオに響いた。
※
水戸駅の朝のラッシュは、早くから始まり、長く続く。
仙台から太平洋沿岸を通り上野に至る東日本鉄道の常洋線を利用し、近隣のひたちなか市や日立市へ向かうメーカー関係者、1時間以上かけて首都圏へ通勤するビジネスマン、そして学生たち。あるいは、年々減少しているが、ここで降りて職場や学校へ向かう人々。
福島県の郡山駅から県北地域を巡り水戸に至る奥久慈線や、鹿嶋市から太平洋沿岸を北上し水戸にアクセスする鹿島線、そして無数のバスの客が、思い思いの方向に流れてゆく。
エスカレーター、階段、そしてホームの旅客の安全に目を配りながら、スティック型のマイクが下りホームにセットされているのを確認した当直駅長の清野助役は、スイッチを押し込む。
「水戸から北へ向かうお客さまにご案内いたします。昨日出現した『白い壁』の影響によりまして、大津港駅にて折り返し運転を行っております。これに伴いまして、行先の変更、運休などが発生しております。詳しくは、駅の掲示及び、当社ホームページをご覧ください。ご不便をお掛けし、申し訳ございません」
2回繰り返し放送した清野は、助役であることを示す赤い帯の入った制帽を被り直し、スイッチを上りホームに切り替えたのを確認し、線路の向こう側のホームの流れを見る。
「水戸から南へ向かうお客さまにご案内いたします。昨日出現した『白い壁』の影響によりまして、取手駅にて折り返し運転を行っております。これに伴いまして、行先の変更、運休などが発生しております。詳しくは、駅の掲示及び、当社ホームページをご覧ください。ご不便をお掛けし、申し訳ございません」
『白い壁』って何だ?詰め寄る客は殆どいない。
昨日、閃光と共に県境付近に突如出現し、ニュースやネットを賑わした壁、関連性は不明だが、これを境に様々な現象が発生している中、県知事が原因は不明だが『白い壁』と呼ぶことを宣言した今、流れを止めてまで駅員に『なぜ』と問うことの無意味を皆が悟っているように。或いは、残された『通勤』という数少ない日常を守りたいのかもしれない。
「疲れた…俺だって何が起きてるのか知りたいよ」
昨日の朝から勤務し、この異常事態による行先変更や運休の対応で、仮眠もとれていない。支社からも一斉メールで『白い壁』と案内するように示達されているが、一連の異常事態に関する情報は皆無だった。もう少しで勤務終了だが、きっと、帰れないだろう。
深いため息をつこうと息を吸い込んだ時、ポケットの業務用携帯が大きなチャイム音を鳴らす。
水戸市の防災訓練でしか聞いたことのない音色がホームのあちこちから鳴り始め、人々は立ち止まって思い思いにスマートホンを取り出す。転んだ人がいなかったのは幸いだった。呆気にとられたのか、辺りがシンと静まり返っている。