茨城政府
2.両刃の剣
陽光を万遍なく取り込むように配慮されたためなのか定かではないが、壁のない部屋の大きな一枚ガラスは、夏の強い日差しを知事室に溢れさせている。
篠崎は、隣に建つ警察本部庁舎を見下ろす。その屋上にはヘリパッドが備えられ、円の中心に大きく「H」と描かれている。
1999年、茨城県庁となる行政庁舎と県議会を行う議会議事堂、福利厚生棟と共に竣工した警察本部庁舎は、行政庁舎の地上25階建て116mに対しては足元にも及ばないが、行政庁舎と統一されたデザインは警察という威圧感よりも洗練された機能美を感じさせてくれる。そして隣の行政庁舎前には地下駐車場へも通じる立体感のあるロータリーが広がり県全体の行政機能が近代的に集約されているあることを強調しているようだ。
−本当にそうなのだろうか?−
西隣の県警本部庁舎から東側へ視線を向ける。新しい大規模店舗が目立ち、いずれも大きな駐車場を備えている。一見郊外型の街並みだ。違うのは周囲にアパートや軽量屋根材を用いた今時の民家からなる新興住宅が密集しているところだ。そしてそれらを囲むように広がる農地には風避けのように樹木に囲まれた立派な瓦屋根の農家が点在する。
−本当にそうなのだろうか?−
再び自らに問いかける篠崎にとって、この景色は未だに違和感を感じさせる。茨城県の県庁所在地は昔から水戸だ。ただ、ここ水戸市笠原町に最初からあったわけではない。この景色から見えてくるのは県庁を中心にして出来た新しい街だ。いちばん近い国道は50号バイパス。「バイパス」と称する通り、水戸の街中の混雑を避けるため茨城県のもう一つの動脈である国道6号線の水戸市街手前から分岐するの道路だ。近くには常磐自動車道の水戸ICもある立地から、流通に関する事業所が集まっていた。笠原とは、そういう場所だった。
国道50号線の本道は、水戸駅前を通り群馬県前橋市へ向かう。「もともとの」県庁は、この国道50号線沿いにあった。しかも水戸駅北口から僅か徒歩10分足らずという街の中だ。堀の跡に囲まれた水戸城址に立つ旧県庁舎は、1930年に竣工し、現在も行政の一部をサポートしている。
ところが、今の県庁舎は水戸駅南口からバスで約25分もかかる。移転に伴って県政に関連する事業所はもとより、様々な企業が水戸駅北口地区から移転してきた。水戸駅周辺よりも土地が安かった笠原は、県庁の移転によって一挙に繁栄した。車さえあれば便利なこの第2の水戸市街の出現により水戸駅周辺。特に北口地区は、目に見えてに人が少なくなった。駅前のデパートが閉店し、商店街の中心で売り上げを競っていた地上10階地下1階の大規模スーパーとデパートが閉店、さらに渋谷のパルコに次いで、日本で二番目のファッションビルとして70年代にオープンし、若者を中心に賑わったた店舗も閉店した。
篠崎にとって思い出のデートコースは、どこもかしこも全滅してしまい、思い出の跡地になってしまった。店の名前すら記憶の彼方で思い出せないものさえある。
本当は人混みの苦手だった篠崎にとって水戸は苦手な街ではなくなってしまった。
「第二次水戸モータリゼーション」
と篠崎は勝手に命名して様々な会議で口にしている。
篠崎の言う所の「第一次水戸モータリゼーション」は水戸の市街地を中心に地方へ伸びていた水浜線と茨城線の廃線であり、自家用車の普及によって鉄道が駆逐され始まった1960年代から1970年代の話。45歳になったばかりの篠崎の記憶には無い古き良き水戸の街だ。
正直言って茨城県は交通網が充実しているとは言い難い。いや、地域による差が大きい。同じ市の中でさえ格差がある。だから街の中心や駅の近くといった便利な場所に住んでいる人でさえ「車がないと不便だ。」ということになる。篠崎自身モータリゼーションを否定できない生活を送っている。
自家用車を持っていると、人は車で移動するのが日常となる。交通の便が良い場所にでさえ車で出掛けるようになる。路駐だらけで混雑した道路をイライラしながら運転した挙げ句、駐車料金を気にしながら買い物をすることに比べたら、広々とした道路を悠々と運転して無料の駐車場の巨大店舗でノンビリ買い物をした方がよっぽどいい。ということになる。こういった郊外型の大規模店舗の出現による「水戸市街地離れ」にトドメを刺したのがこの場所への県庁移転だった。
だが、県庁が移転してから20年。県庁移転と「第二次水戸モータリゼーション」に徐々に屈し、変化してきた20年。篠崎にしてみれば、どうする事もできない変化た。
当然知事として水戸ばかりに目を向けている訳ではない。 県庁移転には無関係の土浦市も日立市も「第二次水戸モータリゼーション」と似たような状況になって久しい。
数代前の知事は、全国でも最長の在任期間だったが、その間に県庁の移転だけでなく、港湾建設や高速道路新設とそれに伴う工業地や商業地の地区開発、民間空港設置を始め、様々な整備事業を行ってきた。その影響が良くも悪くも多方面で変化をもたらし、今の茨城県が形作られてきた。効果が出ているのか懸念する声も多いが、その経済的価値は莫大であり、活用できた暁に得られる効果は計り知れない。
だから。
「悲観することはありません。流動が変わっただけなんです。」
故郷再生を掲げて県知事に初当選した篠崎。その彼が公約に基づき立ち上げた様々なプロジェクトや講演会、挨拶の場で繰り返し訴える言葉だった。
各プロジェクトでは、最近では篠崎節と言われるようになってきたこの言葉を基本コンセプトに、
「茨城県本来の強みだったバランスの取れた産業構造を再生して社会問題として悪化の一途をたどる少子高齢化を迎え撃つ!」
と銘打って各分野の英知を結集してモチベーション高く取り組もうという取り組みである。
ちなみに、現在プロジェクトは、農業、漁業、林業、観光、環境エネルギー、交通、工業、研究開発の分野で官民一体となって行われている。もちろんそれぞれの会合に篠崎は顔を出すようにしている。特にこのプロジェクトでの新たな試みは、「民意による事前修正」で、定期的に聴講者を公募して、質疑応答を行うという形で実施している。勿論収拾がつかなくなるので少人数を抽選で選ぶことになるが、官民合同とはいえ専門家だけで構成している時には「偏った」施策について恩恵を享受するか不利益を被るかを左右される県民の声に案の段階で答えることは、施策を吟味する上で思った以上に効果がある。なぜなら、素人だからこそ施策によって受ける影響をいろいろな物差しで測る県民の質問に答えられないような施策は、施策ではなく駄策だからだ。
このモチベーション重視、民意反映の想いは、保守派の根城とも言われた茨城県で、住民はもとより特に若手の議員を中心に理解を得られているという感触を篠崎は掴んでいた。長期在任知事時代のベテラン議員には疎まれているという空気は露骨に感じるが、「気にしたら負けだ。」と自分に、そしてスタッフに言い聞かせて進んできた。「そういう時代じゃない。」後援会もそう彼を励ました。
−ありがたいことだ。−