狭間世界
――現実と夢が箱の絵は半永久的を否定したのなら、狭間世界では肯定するに違いない――
と思えた。
そうでなければ、狭間世界の存在意義はないからである。いちいち夢の世界や現実世界での結果としては同じになる出来事を否定する世界が存在するのであれば、それは毅然として二つの世界を否定しなければいけないからだ。
ただ、狭間世界は創造なのだ。誰にも証明できるものではない。
狭間世界という発想は、祐樹の独特な発想にとどまっているのか、それとも、他の人も意識していて、誰も口にしないだけなのか分からない。夢の世界の話は、ハッキリ覚えていない夢であっても、誰もが認めている。
寝ている時に見る夢と、起きていて見る夢とでは発想が違っているように思えるが、寝ている時に見る夢も潜在意識のなせる業だとするならば、起きていてみる夢のように、何かを目指して見るものなのかも知れない。
つまりは、覚えていないのは、目指していることが夢の中だけで実現されてしまったからではないだろうか。現実世界での夢というと、実現させてしまうと、その夢は消滅してしまう。そこから新しい夢を目指す人もいるだろうが、いったんはリセットされて、達成感に変わることだろう。
達成感を味わうために夢を見るものだと考えれば簡単であるが、実際にそうではない。達成してしまって、夢がそこで終わってしまうと、達成感とは別の空しさを感じることがある。
それは脱力感に繋がり、精神的に鬱状態に陥ってしまうこともある。
「夢というのは達成するために見るのではなく、夢を見続けるために見るものなんだ」
と言っている人がいたのを思い出した。
その時は、何を言っているのかよく分からなかったが、今から考えると、
――脱力感からの最悪な場合に、鬱状態に陥ることが分かっていたのかも知れない――
と思った。
ただ、この時の鬱状態は、普段感じる鬱状態と同じものなのだろうか?
達成感から感じる鬱状態、感じたことはないが、鬱状態というのには陥ったことはあった。
その時は二週間ほどで戻ったが、すぐに躁状態に入った。
――何をやってもうまくいきそうな気がする――
これもそれまでに感じたことのなかったものだ。
鬱状態から普段の状態に戻らずに、一気に躁状態に入り込んだ。駆け抜けるとはこのことではないだろうか。
祐樹はこの時、鬱状態から躁状態、そしてまた鬱状態へと、普段の状態に戻らずに、この状態が少しループした気がした。
――俺の精神状態はどうかしてしまったんだ――
と思ったほどで、でも気が付けば夢の中で、自分は平常心だったような気がする。
そのことを感じると、スーッと気が楽になって、躁鬱のループを抜けることができたのだ。
ただ、この時に自分が普段の冷静な自分になっているという夢を見たというのを、覚えている。今では完全に忘れてしまっているが、内容まで具体的なくらいその時は覚えていたのだ。
――あの時の冷静な気持ちって、本当に夢だったんだろうか?
狭間世界という発想を思い浮かべた時、この時の躁鬱ループを思い出した。
この時の躁鬱ループがあったから、狭間世界という発想が思い浮かんだのではないかと思うようにもなった。
それが夢と現実世界の間にあるものだという発想はさすがにその時にはなかった。
――まったく違う次元のものが果てしない虚空に広がっている――
と感じたのだ。
夢と現実の狭間だという発想は、
――夢は現実世界と結果は同じものでも、夢で見たことは目が覚めるにしたがって忘れてしまう――
という発想からだった。
夢の世界では、覚めてしまうと現実世界への関わりを全否定してしまう。しかし、狭間世界では忘れることはない。だから、
――ひょっとすると、現実世界で起こった出来事だと思っていることでも、本当は狭間世界のものでないだろうか?
という発想が生まれたのだ。
そういう意味で、現実世界にも関わりがあり、夢の世界にも関わりがある狭間世界という発想になったのだ。
――夢の世界を覚えていないのに、どうして俺は夢の世界と関わりがあると感じたのだろう?
その思いは、夢の世界というのは誰もが意識していて、他の人も感じていることであり、会話にも上がってくることであるのとは反対に、狭間世界の話は誰もしない。そう思った時、
――誰もが狭間世界を持っているが、その世界は夢の世界だと思い込んでいるからではないか?
と感じたからだ。
――夢の共有――
という発想を持ったことがある。
自分の夢に他人が出てきた時、その人が自分と同じ夢を見ているのではないかと思ったのだ。
そんなバカなことはないとは思ったが、相手に、
「昨日、お前俺の夢に出てきたぞ」
と聞いたことはない。
なぜなら、肝心な夢を目が覚めてから忘れてしまったからだ。
「どんな夢だったんだ?」
と聞かれても、覚えていないものを、何といえばいいのか分からないからだ。
夢の共有という発想は、
――ひょっとすると、自分だけではないかも知れない――
と感じたことがあった。
しかし、こんな話をしても、誰が食いついてくれるというのか、祐樹は子供の頃からあった発想を、表に出すこともなく、一人で抱えていたのだ。
それでも、中学に入りグループができると、
――話をしてもいいかも?
と思える人ができた。
それは、最初瀬戸だと思っていたが、瀬戸は思ったよりも現実主義的な人間で、下手に話すのは得策ではなかった。
――では誰ならいいんだろう?
と思っていろいろ考えると、思い浮かんだのは天神だったのだ。
天神という男は、天真爛漫なところがあるが、祐樹には天真爛漫というよりも、八方美人に見えていた。どこかわざとらしさが感じられるようで、それを思うと、祐樹は自分が捻くれていることを感じた。
――何を今さら――
と感じたが、自分が人を偏見で見たりするのも無理はないと思っていたはずだ。以前いじめられっこだったことで、委縮してしまい、誰かがそばを通っただけで、何か攻撃されるのではないかという危惧をいつも抱いていたからである。
天神はいつも笑顔だった。瀬戸はあまり笑顔を見せることがなく、いつも冷静で、その分、信用もできていた。
――もし最初に出会ったのが、天神だったらどうだたんだろう?
グループの最初にできた友達が瀬戸だったことで、瀬戸のいいところばかりを見ていて、正直、彼の悪い部分を見ようとはしていなかったように思う。今でも瀬戸に対して疑問がないわけではないが、すぐに打ち消すことができるほどの軽い疑問だった。
しかし、その疑問は自分で作り上げ、勝手に納得しているだけの自分本位の考えであった。本当の瀬戸を見ようとはしていなかったことに初めて気付かされたのは、天神に出会ったからだろう。
天神に出会って最初に感じたイメージは、あまりいいものではなかった。
――よく言えば天真爛漫、悪く言えば八方美人――
八方美人は誰にでもいい顔をして、信用できないと考えていた。それこそ、「コウモリ」の話である。