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狭間世界

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 夢というのも、自分の妄想が作り出すものなので、ストーリーはどのようにでもなりそうなのだが、実際にはそうはいかない。それは潜在意識がなせる業なので、思ったようには勝手に出来上がってくれない。
 それに比べて狭間世界では、
――主人公もおらず、そもそもその存在を知っている人はほとんどいないことから、一番自由な世界である――
 という考えだった。
 ということは、もう一つ重要な考えが頭の中にあり、
――夢は他人とは共有できないが、狭間世界では、自由に人の狭間世界を行き来できる――
 というものだった。
 これは、デジャブ現象に似ている。
 デジャブというのは、
――以前にどこかで見たような気がするが思い出せない――
 というもので、これが狭間世界のなせる業だと考えると、何となく説明がつきそうな気がする。
 ただ、誰も信じてはくれないので、誰にも話していないが、今であれば、瀬戸に話をしてもいいのではないかと思っていた。
 そんな時、自分の夢に出てきた瀬戸の様子が自分の知っている瀬戸とはまったく違っていた。だから、祐樹はその時、
――瀬戸のこんな姿は潜在意識にあるはずがない――
 と感じ、
――これは狭間世界の出来事なんだ――
 と自分に言い聞かせていた。
 狭間世界と夢と現実とでは何が違うというのだろうか?
 祐樹は、さらに漠然とした考え方をしてみた。
――夢の世界というのは、潜在意識が作り出したものであり、どちらかというと、現実世界に近いものだ――
 と思っている。
 しかし、狭間世界では、潜在意識というような縛りはないような気がする。さすがに何でもできるとは言わないが、現実世界と夢では、潜在意識にないことはできないものだと思っている。
 現実世界によって培われた自分の中での「常識」が、潜在意識として意識の中に根付いているのであれば、夢というのは、意識の中で縛られているということになる。ハッキリいうと、
――夢は「想像」であり、狭間世界は「創造」だ――
 といえるだろう。
 想像は果てしない発想から生まれるもののように思えるが、実際には潜在意識という縛りがある。夢の中では無意識に行われているが、現実世界では想像することは難しい。したがって、実現できれば幸いなことであり、これこそが、現実世界での「夢」というものである。
 ただ、創造は想像よりももっと難しい。潜在意識という縛りはないが、まったくの無から新しいものを作り出すのだ。想像も無から作り出すもののように思えるが、一番の違いは、
「形になっているかどうか」
 ということである。
 想像はその人の心理や発想という内に秘めたものであるが、創造は目に見えて作りあげられたものだ。そう思うと、目に見えるだけにごまかしもきかない。シビアなものだといえるだろうが、それでも想像もごまかしという意味では、
――自分をごまかすことになるのでは?
 と思うと、決して軽んじてはいけないことである。
 狭間世界はどちらになるというのだろうか?
 祐樹は狭間世界を「創造」だと思っている。
 それも、自分には意識できるものではなく、そのかわり、他の人から見て、本人のことではないか。
 他の人も、
「まさか、本人が知らないわけはない」
 と思っていることである。
 それは当然であろう。
――自分も知らないことを、まわりが知っているはずなどありえない――
 と思っているからで、皆が皆、そう思っているとは断言できないが、少なくとも、少数ではないような気がする。
 しかし、祐樹はそれを人間の傲慢さだと思っている。
――自分のことを一番よく分かっているのは自分なんだ――
 という発想は、当たり前のことのようであるが、冷静に考えると、
――俺は本当に自分のことを誰よりも知っているんだろうか?
 と思い返してみると、決してそんなことはないような気がする。
 人から言われて気づくことも少なくなく、その意見を素直に受け入れるかどうか、受け入れることができる人には分かることだが、受け入れることのできない人は、自分のことは自分が一番分かっているという当たり前の発想を鵜呑みにしているというのも、実に皮肉なことである。
 だから、自分のことを一番よく分かっているのが自分だと考えるのは、傲慢だというのだ。しかも、その思いがその人の発想の根底にあるというのは結構面倒くさいことが多いだろう。
 祐樹にとって自分を一番分かっているのは自分なのだという発想は、次第になくなってきていた。ただ、
――自分の一番の理解者が自分であればいい――
 とは思えるようになっていた。
 すべてを分かっているのが傲慢であるなら、理解しようとする姿勢は謙虚だといえるだろう。謙虚な姿勢はどんな場面でも、優遇されるような気がする。優遇するのは自分であって、自分で自分を納得するような心境になる上で、必要なことだと思っている。

               鏡の中の対照

 狭間世界というのは、祐樹にとってどんな世界なのだろうか?
 さすがに何でもありというわけではないと思っている。
 夢と現実世界の間にあるもので、夢か現実か、どちらに近いのか分からない。
 ただ、その両方の間にあるものだということは分かる気がする。
 祐樹は、自分の前と後ろに鏡を置いたシーンを想像していた。これが一番狭間世界というものを表現するのにふさわしいと思っているからだ。
 目の前の鏡には自分が写っている。目はその鏡に集中していて、神経も集中している。他に気を散らすものなど存在するわけもなく、この状況に陥れば、誰でも目の前の鏡以外は見えなくなるに違いないと思えた。
 写っている自分の後ろに、鏡が写っている。その鏡には、背中を向けている自分が写っている。そして、その向こうには、こちらを向いている姿が写っている鏡が写っている……。
 つまりは、鏡を使って、永遠に自分が映し出されるという発想である。
 ただ、そこで素朴な疑問が生まれてきた。
――最後まで行けば、俺の姿は消えてしまうのだろうか?
 確かに半永久的に映し出される自分の姿は消えることがないように思う。しかし現実としてどんどん小さくなっていって、すぐに見えなくなる。見えなくなったからといって、その存在を否定することは乱暴だ。むしろ不自然である。そう考えると、もう一つの発想が生まれてきた。
 ある大き目の箱が目の前にあり、その箱を開けると、その中には少しだけ小さな箱が入っている。その箱を開けると、またその中には箱が……。
 そうやって考えると、どんどん小さくなる箱ではあるが、決して箱の中の箱はなくならない。もちろん、どんどん小さくなってくるのであるから、そのうちになくなってしまうのは間違いない。事実はそうでも発想は違っている。
 夢の世界ではきっと、箱はなくなってしまうに違いない。自分の中の常識が、
――箱はなくなるんだ――
 と言っている。
 潜在意識が見せるのが夢なのだから、常識に従うとするならば、箱はなくなってしまうだろう。
 夢の世界でも現実世界でも、プロセスはどうあれ、結果は同じことになっている。
 では、狭間世界ではどうなのだろうか?
作品名:狭間世界 作家名:森本晃次