狭間世界
彼女がかろうじて頷いたのをいいことに、祐樹はさらに言葉を続けた。
「どこか悪いところがあれば一緒に診てもらえばいい」
という一言を言うと、彼女はハッキリとした躊躇いを見せたが、すぐに笑顔で頷いた。
笑顔と言っても、自分でも状況が分かっていない状態なので、苦笑いでしかなかったが、それでも精一杯の笑顔だったのだろう。その時、祐樹はそのことに気づくべきだったのだろう。
すると、横から祐樹がそれ以上何かを言うのを妨げる人がいた。
祐樹の肩に手をかけて、少し強く押さえるようにしていた。相手が確認できない間は攻撃的な相手に対し、自分も攻撃的になりそうになったが、相手を見て、その気持ちはすぐに萎えたのだった。
「瀬戸君」
後ろを振り向くとそこにいたのは瀬戸だった。
「もうそのくらいにしておけ」
そう言って、さらに肩に置いた彼の手に力が加わった。
さすがに瀬戸にそこまでされると、祐樹は逆らうことはできなかった。
瀬戸もそれ以上何も言わずに、下を向いていた。その先にあるのは彼女の顔で、お互いにアイコンタクトを取っているようだった。
――一体、何なんだ――
祐樹は、自分を制しておきながら、瀬戸と彼女の間に暗黙の了解のようなものがあったことに納得がいかなかった。
狭間世界
救急車の後ろの扉が閉まり、けたたましい音とともに、救急車は発射した。中には付き添いとして天神が一緒に乗っていった。祐樹は納得がいかなかったが、状況としては、これが一番いい判断だったのだろう。
天神が救急車に乗って行ったことに違和感を感じたのは、祐樹だけではなかっただろうが、そのことをその時に誰が口にできるというのだろう。加害者と被害者は同じく女性で天神は、
「善意の第三者」
だったのだ。
祐樹は、彼女と天神が付き合っているのではないかというウワサを何度か耳にした。
「何度か」
というのは、相手が違って、それぞれに利害関係のない相手から聞かされた話なので、表現として、
「何度か」
ということになるのだろう。
そのことは、クラスでは公然の秘密のようになっていた。グループ内では当然誰もがウワサを知っていることだったが、もちろん、加害者の彼女も分かっていたことだった。
しかし、二人の間に、それなりの確執があったことは誰もが分かっていたのだろうが、一触即発のようで、
「危ない、危ない」
と思われていても、結局何も起こらなければ、次第に興味も薄れてくる。
二人の関係は、まるで、
――オオカミ少年――
の話のようである。
「オオカミが来た」
と言って、うそつき少年がまわりにウソをつきまくって、まわりを不安に陥れたが、実際には、その少年の言い分はウソではなかった。
これは誰か一人がその少年を、
――嘘つき呼ばわり――
することで、まわりの目が彼を嘘つきだという烙印を押してしまうことになった。
集団意識というのは恐ろしいもので、一人の言い分に誰かが同調することで、まるでそれが正論のようになってしまうのだから、恐ろしいものだ。
そして、嘘つきにされてしまった少年だったが、それでも本当のことを言い続けなければいけない。
「オオカミが来た」
そして結局、本当にオオカミがやってきて、少年も村人もオオカミの群れに襲われてしまい、全滅してしまったというお話だったような気がした。
これは、祐樹の思い込みのストーリーだった。
本当は、少年には虚言壁があり、ウソをつきまくっていたのだ。その本意がどこにあるのかは分からないが、ウソをつくことで、村人は彼を信用しなくなった。
しかし、その後、本当にオオカミの群れがやってくるが、誰も信用していないので、誰も助けにはこなかった。それで少年が食われてしまうというような話が本当だったのではないだろうか。
では、どうして祐樹はそんな勘違いをしたのだろうか?
祐樹という男は、ウソをつくのが嫌いだった。
もちろん、ウソをつかれるのも嫌で、ウソをつくという行為自体、まるで他人事のようだった。
そのため、オオカミ少年の話を聞いた時、話を聞きながら、何とも吐き気を催しそうなくらい、気持ち悪さが襲ってきた。
話を聞いていて、祐樹は少年に同情的な気持ちになったのだろう。
――嘘つき少年がウソをつくには、それなりに理由があったんだ――
と考えた。
最初にそう思ってしまったことで、祐樹は少年が悪い少年ではないと勝手に解釈した。
そのせいで、
――悪いのは、村人たちの方なんだ――
と感じるようになった。
つまりは、村人の誰かが、少年を嘘つきに仕立て上げ、自分たちの正当性を集団意識の中で確立しようと考えたと思うと、話の辻褄も合ってくると思ったのだろう。
そして辻褄を合わせるには、
「オオカミが来た」
と言って、村人に訴えるが、今度は本当のことなのに、誰も信用しないという感覚は、まるで昔の日本に存在した「村八分」という、考えに結びついてくる。
しかも、日本という国は、「判官びいき」の国である。
弱いものは悲劇の主人公に対して、実に強い感情を持っている。
「オオカミ少年が、村人に陥れられて、結局は村八分から殺されることになったんだ」
というストーリー展開であっても、別に違和感なく受け入れられたに違いない。
祐樹の感情は、判官びいきとは少し違ってはいるが、似たようなものである。
――少年は、一人孤独だったんだ。だけど、少年は自分を孤独だとは思っていただろうが、寂しいとは思っていなかったように思う。だから、ウソをついたつもりはないのに、いきなり嘘つき呼ばわりされたことで、少年は自分の中のもう一人の自分が表に出てきたことを感じたのではないか――
そこまで考えてくると、オオカミ少年と自分を重ね合わせてしまう。
――俺だったら、そんな無慈悲な村人なんか放っておいて、オオカミが来ようがどうしようが、自分だけが助かるように考えるんだけどな――
と思った。
少年が本当は嘘つき呼ばわりまでされて、本当にオオカミが来た時に、村人に声を掛けたのは、最後の自分への挑戦だったのかも知れない。
「僕は、このまま嘘つき呼ばわりされることは耐えられない。いっそのこと、死んでしまいたい」
とまで思いつめていたのではないかとも思えた。
昔の村であれば、村人から相手にされなければ、村には住めないだろう。
「このまま俺は村を出ていくか、村で無視されながら、針の筵に座らされて、将来のない生活をしなければいけないんだ」
と思うと、思いつめたとしても無理もないことだ。
そこで、少年は、
「死んでもいい」
と思い、村人は信じてくれなかったが、オオカミが時々近くまでやってきているのを利用して、わざとオオカミを村に誘導することを考えた。
――これこそ、自殺行為だ――
と思った。
死を覚悟してまで、村人に対しての自分の立場を証明するには、これしかないと思ったのだろう。
もちろん、大きな賭けだった。すぐ裏には「死」の一文字が潜んでいるのだ。
少年は意を決して、
「オオカミが来た」
と必死に叫んだことだろう。