短編集20(過去作品)
「私は不思議な気がしたのは、その男性の顔が次第に知り合いの顔に似てきたことが不思議で仕方がなかったんです。その男性は私にとっても身近だった人でした。もう、二度と私と出会うことはないはずの人でしたので、とにかく不気味でしたね。横顔だけだったのですが、私が一番印象に深かった表情を浮かべていたのが気持ち悪かったです」
そう言いながらも彼女はずっと水平線を見つめるだけでこちらを見ようとしない。確かに彼女の目は光っているのが分かるような気がしている。
私の顔を見ようともせずに話しているが、その内容は私が聞きたいと思っていることをまるで予測しているかのごとく言い当てる。
――本当に彼女の体験談なのだろうか? ひょっとして私の心を見透かして、頭に浮かべながら話しているだけなのではないだろうか?
とも考えたが、どうにもそれだけでは説明がつかない気がする。やはりここは彼女の話を体験談からだと思って聞くことが一番いいと思うのだった。
「その人も、実は今の私と同じように、ここで話をしてくれました。あなたは今、私があなたの心を読んで話していると思っているでしょう? その人も私にそのことを告げ、私はその人の顔を今のあなたと同じように穴があくほど見ましたわ」
そういって少し含み笑いを浮かべている。なるほど彼女の話をじっと聞いていると、彼女の顔が次第に真由子の顔に見えてくる。それも、冬の海を見たいといったあの時の顔にである。
「あなたは、今の私のような表情の人を思い出していますね。見れば見るほどそっくりでしょう? 私もそうでした。その男性の話を聞いているだけで、すべてがその男性の言うとおりに思えてきて仕方がないんです。そしてその時私はハッキリと分かったんです」
今まで間髪入れずに、しかし慌てずゆっくりとした同じテンポの口調で語っていたそのリズムに狂いが生じた。私の口を挟む機会を与えてくれたかのごとくである。
「どうハッキリしたのですか?」
「私があらためてそこに忘れていた何かを見つけに来たということ。そして、それが今、この瞬間見つかったんだということですね」
確かに私は忘れていた何かを探しに来るのだという自覚があった。しかしそれは漠然とした思いであって、秋の海を見ることがそのまますぐには忘れていた何かを思い出すことと繋がるとは思えなかったからである。
「あなたも今それを少しずつ感じているはずですよ。忘れていた何かはすぐには思い出せないかも知れませんけどね」
「ええ、そうなんですよ。何か漠然としたものがあるのは事実です。それが頭の奥でモヤモヤしていて、それが何であるかハッキリすればいいのですが、どうもそう簡単に思い出せそうもないのです」
とは言いながら私は忘れていた何かを思い出そうとしていた。すぐそこまで思い出せているような気がしているが、あと一歩というところで、なかなか思い出すことができない。彼女の言葉に説得力があればあるほど、思い出すことができないような気がしてきた。
彼女のいうことは、まったくもって説得力がある。私が思っていることを私が感じる前にいちいち指摘するのである。
――予知能力があるのか?
とも思ったが、彼女の話す内容は私が実際に見て体験していることを自らも体験しているから分かっていることなのだ。不思議なことであるが、それならば説得力も頷ける。
彼女はいったい何が言いたいのだろう?
「あなたは今私という人間が不思議でしょうがないんでしょうね。思っていることをズバリと言い当てるから」
「ええ、その気持ちも当たっています」
「そうでしょうね。私もそうだった。でも、あなたにはきっと水平線が見えるわ。私には結局見えなかったんですけど……」
そういって寂しそうな顔になり下を向いた。
だがそれは一瞬だった。再度、前を向き直ると、水平線を見ている。その気持ちには祈りが篭っているかのように感じたのは錯覚であろうか。小さくそして規則的に彼女の唇が揺れている。小さな声で呟いているのだ。
私は真正面を向き、さらに水平線を探してみた。探しながら今日のことを思い出そうとしている。それは無意識の気持ちであった。
朝、テレビで見た秋の海、目の前に広がっているような秋の海を期待していたのだろうか? 今から考えると漠然とした期待で、テレビに映ったもの、期待していたものとは少し違う気がする。そう感じると、テレビで見た海がどんな海だったか、今さらながら思い出すことはできない。
――本当の秋の海は違うんだ――
今日出かけてみたくなったのは、本当の秋の海を見たくなったからなのかも知れない。私は見つけたのだろうか? 本当の秋の海を。目の前に広がっている秋の海でさえ、本物ではない気がして仕方がない。
――ひょっとして今隣で見ている女性の目に写っている海こそが本当の秋の海なのかも知れない――
その根拠は「水平線が見えること」である。
どんなに天気が悪くとも、じっと目を凝らしていれば見えてくるのが水平線ではなかろうか。今私はそんな気がして仕方がない。見えるはずの水平線が見えないことは、私に漠然とした不安を与える。自分の意識しない中で広がっている不安感、それに気付いた時、私は果たして自分の意志の通りの行動ができるのだろうか? 実に不安である。
するとその女性が私の方に初めて振り返った。
「あなたは、忘れていたことを今思い出そうとしている。私の顔を御覧なさい」
じっと私を見つめているその顔には寂しさはない。何かを訴えるような顔で、真剣そのものの顔をしているが怖さは感じない。むしろ懐かしさと、純粋に訴えるような潤んだ目が印象的だった。
純真無垢にすら見えるその表情、確かに見覚えがあった。
「真由子」
思わず叫ぶと、彼女はゆっくりと頷いていた。
「あなたは私が呼んだのよ」
実におかしな表現であるが、私には頷けた。
――忘れていた何か――
それは真由子だった。確かに真由子と一緒に冬の海を見たことだけは覚えていたが、真由子の顔をハッキリと覚えていなかったのも事実だし、その時に何も話をしなかったと記憶していたこと自体、今から思えば信じられないことでもあった。真由子に感じたのは、
――私に見えない水平線が見えているのではないだろうか――
ということであったことを思い出した。
「前、僕と一緒にここに来た時、君には水平線が見えていたのかい?」
「いいえ、今のあなたと同じで見えなかったわ。あの時も今もあなたには見えないでしょう?」
「ええ、その通りなんだよ」
「でも直に見えるようになるわ」
そういって、真由子は私の足元からじっと後ろの方を見つめていた。真由子は続ける。
「あなたには見えなくなる理由がないからです。でも、私はあなたに会いたかった。会えて嬉しいわ。でもあの時も会うべくして会った私たちだったのよ」
初めて優しい顔に変わった。忘れていた顔とはこれだったのかも知れない。
あまり母親の愛情を受けた覚えのない私は、女性との接し方をよく知らない。今まで女性と付き合ったことがなかった理由の一つとして、自分が父親に似た性格だということもあるかも知れない。
――女性には心を許してはいけないのだ――
作品名:短編集20(過去作品) 作家名:森本晃次