短編集20(過去作品)
常々父は独り言のように言っていた。
それがトラウマとして私の頭の残っただけだったのだろうか?
父がそんな話をし始めてから、急に母がいなくなった。私が中学の頃だったであろうか、ハッキリとは覚えていないのだが、まわりの噂として、母には誰か違う男の人ができたという噂を聞かされたことがあった。確かに母はまだ肌もきめ細かく、皺を感じさせることがなかった。まだ三十代だっただろう。歳よりも若く見えるという噂だったことから、人によっては三十前後に見えたかも知れない。
そんな母がいなくなったということで、私は直感した。
――男とどこかに行ったんだ――
それからの父は荒れに荒れた。まるで自分を鏡で写したような性格な父なので、気持ちはよく分かった。しかし逆にたった一人の女性だけで自分もここまでなってしまうのかということを思い知らされた気がしたのも事実で、辛さがこみ上げてきた。トラウマとして残ったとすればそれだったのかも知れない。
――忘れていた何かを思い出しに来た――
ひょっとして真由子のこと以外にもあるのでは? と感じたのだが、その時に思い浮かんだのが、父の顔だったのだ。
その顔というのは、普段の実直で真面目な顔ではない。また、母が出て行ってからの追い詰められたような落ち込んだ顔でも、自暴自棄になって酒びたりで目の座った顔でもない。
顔色が真っ赤になったかと思えば真っ青に変わる。頬から首の筋にかけて絶えず痙攣を繰り返し、充血した目がこれ以上開くまいと思うほど突き出している。さらに、紫色に染まった唇が泡を吹いていて、完全な断末魔の表情である。
何度となく夢で見たような記憶がある。それがどこだったのか、思い出そうとすると霧に包まれ、前後不覚に陥ってしまうようだ。後で聞くと、どうやら発作を起こしているらしく、気がついたら救急車の中にいたということもあった。もちろん精密検査をしてもらったが原因がつかめない。きっと、トラウマがそうさせるのだろうという医者の結論に従うしかなく、これといった治療をしたわけでもない。
「原因が分からないと治療のしようが分かりませんね。ゆっくりやるしかありません」
これが医者の結論である。まさか、精神科医の世話になろうなどと思ってもみなかったのだ。
いつの間にか父もいなくなっていた。いなくなってもちっとも不思議な気分にならなかったのはなぜだろう? ひょっとして望んだことだったのかも知れない。
――父の情けない顔を見たくない――
露骨に嫌な顔をしたことを思い出した。それに気付いた父は一瞬下を向いたが、顔を上げた時はすでに私の知っている父ではなくなっていた。
――元々の父の顔ってどんなだっただろう?
その瞬間から父の本来の顔を思い出せなくなった。いや、父だけではなく母の顔もである……。
今ここで真由子に見つめられながら、じっと私は自分の手を見た。真由子もそれを覗き込んでいる。
「その手で、あなたは……」
そうだ、私はこの手で父をあやめた。あれから私は変わってしまった。まるで自分で自分を葬ってしまったような気になってしまい、すべてをトラウマとして抱え込むことで、記憶の奥に封印してしまったのである。それが時々顔を出そうとするのだが、出てくるものではない。
「あなたに水平線が見えないのは、生死の境が見えないから。私にはハッキリ見える。いい意味でも悪い意味でも……」
さらに真由子は続ける。
「あなたともう、ここで会うことはないわね。でも私はあなたを迎えにきたの。あなたにも水平線が見えるはず、そしてあなたはそれで救われるのよ。私のように……」
私は何気に真由子の足元を見た。
「影がない!」
言葉になったかどうか分からない。真由子はこの世の人ではないのか?
「あなたは私の顔を見て懐かしいでしょう。小さい頃を思い出してごらんなさい」
真由子の表情が少し変わってきた。少し寂しそうなその顔、いつも何かに怯えているようあその顔にはハッキリと覚えがあった。
「おかあさん」
「さあ、おいで。これからまた三人で暮らしましょう。そのうちにお兄さんもこちらに呼ぶから……」
何となく懐かしさがあり、心の中に封印していた真由子も、きっと私のことを心の中に封印していたのだろう。それが初めてお互いに封印を解く時がやってきたのだ。
それが秋の海、私が見たかった水平線、今まさに見ることができる。心の封印が解けるがごとく広がる大パノラマに、父の毅然とした顔が浮かび上がっているのを感じた……。
( 完 )
作品名:短編集20(過去作品) 作家名:森本晃次