心中未遂
年齢的には、そろそろ五十歳を超えるくらいの老練の刑事で、そろそろ若手に最前線を譲ってもいいと思っているが、どうしても気になる事件があると自分で出張って行って、自分の目で確かめなければ気が済まない性格だったのだ。
坂田刑事は、二人の間に薬以外の何かが存在しているように思えてならなかった。
理沙が目を覚まして、坂田刑事の面会を受けたが、坂田刑事は事情聴取のような堅苦しいことはしなかった。
「事情聴取は他の人がやってくれたから、私は、あなたとは普通に面会したいと思っているんですよ」
手にはお見舞いの花束が握られていた。知らない人が見れば、娘と父親に見えるくらいだ。他の人には心を開こうとしない理沙だったが、坂田刑事にだけは、笑顔を見せるくらいにまでになっていた。
坂田刑事は、この年になるまで独り身だった。結婚したこともなく、当然娘もいない。しかし、時々無性に娘がほしくなることがあるというような話を理沙にしていた。弥生はこの時、坂田刑事の存在を知らなかったが、坂田刑事と同じような境遇の男性を知っている。その人がスナックで弥生を贔屓にしてくれていて、いつも二人でカウンターの奥で話をしていたのだ。
坂田刑事に似た男性は、弥生が店に入ってからずっと贔屓にしてくれていた。どうやら彼が店に来るようになったのと、弥生が店に入った時期が、ほぼ同じくらいの頃だったようだ。
坂田刑事は、弥生をチラッと見て、何か驚いたような表情になった。すぐに顔を背けたが、弥生にとって欠落した過去を結びつける何かを坂田刑事が知っているのではないかと思うと、ゾッとするものがあった。
弥生が坂田刑事と顔を合わせたのは、理沙の部屋を覗きに行った帰りだった。
理沙は集中治療室から個室に移されてから、坂田刑事が見舞いにやってきたのは、二日後のことだった。その間に弥生は理沙の部屋の前に数回顔を出し、理沙も弥生が覗いていることに気付いていたようだ。
弥生はさすがに声を掛けられずに佇んでいるしかなかったが、坂田刑事は刑事という立場を利用できるからか、ずけずけと病室に入っていった。病室に入っていった坂田刑事を目で追うように気にしていた弥生だったが、坂田刑事は弥生の存在を無視したかのように理沙に話しかけていた。
――刑事がただのお見舞いで訪れられるほど、暇じゃないはずだわ――
と、弥生は思っていたが、今の理沙には何を聞いても答えが返ってくる様子はない。記憶をほとんど失っているのだから、どうしようもないはずだ。
中の話はほとんど聞こえなかった。ただ、扉を閉めることはしないのは、密室にするわけにはいかないことを心得ているからだ。少しだけでも記憶を失っただけで、それまでの自分よりかなり不安に思う部分を自分の中に感じる。
理沙の記憶がないのは、医者の見立てでハッキリしている。次第に思い出していくこともあるだろうが、今のままではなかなか思い出すことはないだろうという診察のようだ。
弥生は看護師の一人と仲良くなり、その人から情報を仕入れていた。精神状態は不安が渦巻いていても、まわりに対しての愛想は今まで通り振りまくことはできる。これも水商売で培われたもので、弥生にとって実に皮肉なものだった。
看護師は弥生と同い年で、病室に来てくれた時、話をしてみると、どうやら田舎が自分の出身地と隣街のようだ。
同じ街でないことは、却って幸いだった。同じ街だと却ってお互いに、
――どこか知られたくないことを知っているのかも知れない――
という邪推を持ち、話が先に進まなかったに違いない。
隣街なら、お互いに知っていることもないはずなので、純粋に懐かしさを共有できたのだ。
ただ、弥生にとって思い出したくない過去が田舎にあるのも事実だった。欠落した記憶の中に、覚えている記憶と真ん中で切断された形になっている不完全な記憶もある。それらはすべて田舎にいる頃の記憶で、どちらかというと、忘れていたい記憶だったに違いない。
坂田刑事が、理沙にどんな話をしているのか分からないが、触れられたくない記憶に触れてしまうと、きっと理沙は坂田刑事に対して、心を開くことはないだろう。しかも相手が刑事という立場の人間だということも、理沙には警戒を強めるに十分な相手である。
弥生は自分が看護師と話をしている中でも、思い出したくない記憶があることに今さらながら気が付いた。坂田刑事の訪問を受けている理沙も、硬直するほど緊張していることだろう。その気持ちが分かっているだけに、弥生は理沙と坂田刑事の会話の内容に興味を抱くのだった。
理沙が失った記憶は、心中した時に失ったものなのか、心中前からすでに記憶は失われていたのか、果たしてどちらなのだろう?
理沙の死のうとした気持ちの中に、記憶を失ってしまうほど何かショッキングなことがあり、自分で精神をコントロールできなくなってしまったところに現れたのが、一緒に心中しようとしたドラック漬けになっている男だったのかも知れない。
弥生は理沙と話がしてみたいと思った。自分も記憶が欠落している人間、さすがに理沙が失った記憶ほど大きなものではないが、同じように自殺を図った人間としては、その理由の度合いが、そのまま比例しているのではないかと思っている。
――理沙に一体何があったのか?
心中しようとした相手が、実は面識がない相手で、しかも危険ドラッグ所持という犯罪がらみの男であることから、理沙の立場は微妙である。
――でも、放っておけない気がする――
確証はないが、自分にも多少なりとも関わってくることのように思えてならない。記憶のない状態で意識を取り戻した理沙が弱弱しく見えてならない。
そこが自分の過去に影響が思えてくるのだ。弥生にとって理沙の存在が果てしなく大きくなってくるのではないかと感じたのが、その時だったのだ……。
◇
弥生が入院してから、そろそろ一週間が経とうとしていた。相変わらず記憶が戻らない中で、少し弥生の心境に変化が起こっていることは、医者の側でも分かっていたが、それが理沙に対してのものだということまでは分からなかっただろう。
理沙の方は次第に意識がしっかりしてくる。だが、相変わらず記憶が戻ることはなく、精神的な不安は拭い去れるものではなかった。退院までにはしばらく掛かるだろうということだった。
弥生は、看護師にそれとなく理沙のことを訊ねてみた。いつも面倒を見てくれている担当看護師とは、時々話すこともあるので、気軽に聞くことができる。弥生が自殺を図って記憶が欠落していることも分かっていて、入院三日目には、どうして自殺に至ったかということや、スナックに勤めていることも話したりしていた。
年齢的には弥生とそれほど変わらないだろう。二十歳代半ばと言ったところだろうか。本人もまだまだ看護師として覚えることもたくさんあると言っていたが、それは謙遜であろう。話をしているだけで、しっかりしている様子が伺える。専門的な知識はなくとも、スナックに勤めていれば、人を見る目は次第に養われていくというものである。