心中未遂
表情に出すとママに見抜かれてしまう気がしたからだ。この頃はまだママに対して全幅の信頼を置いておらす、絶えず見張られているような印象を受ける毎日で精神的には、いつもピリピリしていた。
今から思えば、それも悪くなかった。余計なことを考えることもなく、ママに従っていればよかったのだ。
最初は毎日のように、
――今日で辞めてしまおう――
と思いながら、接客をしていたのだが、お店が看板になって落ち着くと、そんな気持ちは失せていた、次第に薄れてくるわけではなく、気が付けばなくなっていたのである。
――それだけ毎日が充実しているんだ――
と感じるようになると、辞めたいなどという気持ちがウソのようだった。
看板になってから、ママは何も話しかけてこなかったのに、弥生が充実感を感じるようになると、すかさずねぎらいの言葉を掛けてくれるようになった。
――本当なら、逆のはずなのに――
と思うのだが、ママは違った。
それはスパルタ教育のごとく、突き放すというよりも、弥生が何を考えているかを最優先に考えて、話しかけられるタイミングを計っていたのかも知れない。確かに弥生が辞めたいと思っているところで話しかけたとしても、それは火に油だったかも知れない。他の人の立場であれば、それでもいいのかも知れないが、経営者であり、責任者でもあるママという立場は、アルバイトの弥生にとっては絶対的なものである。どうしても高圧的になっても仕方がなく、ママにそのつもりはなくとも、弥生の方に存在すれば、それは高圧的だと思われても仕方がない。
弥生にとって確かにママは強迫観念まで抱いてしまうほどの存在だった。弥生にとって水商売を一生やっていくという覚悟があれば、また違ってるのだろうが、今はまだアルバイト、人生経験の第一歩くらいにしか思っていないのだから、強迫観念を抱いても仕方がないだろう。
そこですぐに辞める人もいれば、少々我慢して頑張ってみる人もいる。
すぐに辞めてしまう人は、そこで性格の云々は関係ないが、少しでも我慢してでも続けて行こうと思う人は、初めてそこから性格が大きく影響してくる。
続けられるかどうかは、本人次第なのだ。いくらママが優しい人でも、その人の性格と、スナックという場所に対して、向き不向きがあるだろう。
弥生にはスナックという仕事が向いていたのかも知れない。
いや、それよりも、スナックで働くことが好きなのだ。それはある意味人を見るのが好きだということでもあろう。ただ観察しているだけでいいのか、それとも関わりたい方なのかは分からないが、関わりすぎると深入りしてしまうことは、今回の自殺で分かった。田舎から出てきた女の子にはいくつかのパターンがあるだろうが、弥生はその中でも希少価値に属するに違いない。
男を追いかけてきて、男にすがることなく一人でも暮らしていけるようにというつもりでスナックに入ったのだが、実際に相手の男に裏切られた事実を突き付けられた時、自分の甘さを痛感した。
これは、なまじ自分が強くなりたいという前向きな気持ちだっただけに、余計に本人には辛かった。
――何を信じていいのか分からない――
という意識を持ったに違いない。
人を信じることができるかできないかは、その人の性格なのだろうが、気丈に振る舞っている人ほど、そして気持ちに余裕を持とうとして生活してきた人ほど、想定外のショックに見舞われた時はきついものだ。
「遊びの部分がないのよ。車で言えば、ニュートラルのような感じよね。ピンと張った糸は切れやすいって言うでしょう?」
と、最初の入院から気持ちが落ち着いてきた時に、ママから教えられた。
スナックで働いていると思える女に、いかにもみすぼらしい男が張り付いているのを見ると、不釣合いにしか感じてこない。見た目はみすぼらしい男女が寄り添っているように見えるだけに、
――どうしてそんな雰囲気を醸し出しているのかしら?
ということの方に興味をそそられた。
もちろん、訊ねるわけにはいかない。二人は黙って奥のテーブルで水割りを飲んでいる。よく見ると、男の方が小声で女に話しかけているようだった。何を言っているのか分かるわけはないが、顔には次第に焦りが感じられる。それは女が男の質問に、何も答えようとしないからだ。
弥生が自殺した時、躊躇い傷をいくつも作った時、この二人のことを思い出していた。あの二人が店に来たのは一度きり、結局、女の喋っている声を聞かずじまいだったが、声を聞いてたら、自殺の瞬間、思い出しただろうか?
自分が手首を切った瞬間に、初めて二人が心中を考えていたのではないかと思った。なぜ今まで気付かなかったのか不思議だったが、考えてみれば、心中前だと思うのが、あの二人には一番自然な考えだったように思う。
さらに弥生は、その時ママも、心中を想定していなかったのではないかと感じた。その時店に漂っていた雰囲気から、心中などという想像が働くことはなかったのだと思うのだ。
心中を考えている二人は、独特の雰囲気を持っている。それだけに、環境によっては、誰もが感じる場合もあれば、誰も気づかない場合もある。そう思うと、
――この二人は、誰にも悟られない雰囲気を作るために、この店に入ってきたのかしら――
と思うようになっていた。
男女二人がスナックに入ってくるというのは、実に不自然だ。知っている店ならまだしも、誰も知らない、明らかな「一見さん」である。そんな二人を興味津々の目で見たとすれば、余計な妄想を働かせることはできても、真相に近づくことは却って難しいのではないかと思えるのだ。
結局、その二人が店に来たのは、その一回きりだった。時間的には二時間程度のものだっただろうか。そこだけ時間の流れが明らかに違った。まるで凍り付いたようなその場所は、本当に二時間だけだったのだろうか?
その時、店内には他の客もいたが、誰も二人のことを意識している人はいなかった。
――まるで二人がいるのを知らないかのようだわ――
ひょっとして、他の人には二人が見えていないのかも知れないと思ったのは、その時だった。他のお客さんに、
「ねえ、奥の二人、おかしいでしょう?」
などと聞けるはずもない。
あの二人のことを話題にするなら、この聞き方しかできないような気がしたからだった。他の人には関係のないことではあるが、おかしいということを分かってるかどうか、知りたいというのも思いの中にあった。
どう見ても、二人がおかしいのは分かりきっているはずなのに、誰もそのことに触れる様子がない。誰も気が付いていないという発想が生まれる前なら、きっと、この聞き方しかできないと思ったからだ。
弥生は、どちらかというと、あまり感情を表に出さない方だ。だが、肝心なことはしっかりと口に出すことから、ママの信任も厚いのだと思っている。
――ママに似ているところがあるのかしら?
と、何度か思ったが、そうなると、水商売への思いが生まれてくるかも知れない。それは自殺を試みる以前では考えられないことだった。