心中未遂
誰の中にも良心は存在する。穂香は自分のジレンマの中で、そのことは痛いほど分かっているはずだ。それなのに、自分に対して、今まで報われなかった人のため、表に出ることもなく、この世から消えていった人のため、敢えて鬼になることを強いている。
それは今まで表に出したことのない穂香の裏の部分で、自分でもそんな部分があったのかと、恐ろしさを感じるほどだった。しかし、鬼になってしまえば、誰に憚ることのない誰も知らない自分が、自由に渡り合うことができることに、悪い気はしていなかった。
――私にもこんな性分があったんだわ――
鬼になってしまえば、自由に動けることを覚えてしまうと、怖さは急に薄れてきた。
穂香は、「やること」がいくつもあって、何から手を付けていいのか分からない時、鬼になってしまった自分の存在を頼もしく思う。鬼になった自分は、鬼になりきれなかった時の自分の無念な思いを叶えてくれるに十分な冷静さを持っているのだ。
冷酷さを冷静さだと思っていたのが、穂香がまだ鬼になりきれていないところでもあった。そこが隙になってしまったのかも知れない。計画は順調に進んでいる。何を迷うことがあるというのか。
穂香はさらに、自分のしてきたことを思い出していた。それはただあくまでも穂香にしか分からないことで、他の登場人物が自分の考えていることを忠実に実現してくれているという前提の元に立って話を展開している。他の人が考えていることは、読み進んでこられた方にはお分かりのことであろう。
それだけ、人一人が計画したことというのは、どんなに壮大なプランであっても、人の心までは凌駕できないものだ。
人の心を支配するというくらいまでに気持ちを高ぶらせておかなければ、何かを計画するなど不可能なことだと穂香は考えていた。そんなことを自分にはできるはずなどないと、ごく最近まで思っていた。
それを変えたのは、信二の父親を見つけた時だった。
信二の父親は優しい人だった。そして、懐の大きな人で、それは弥生が慕うだけの男性であることでも証明されている。
穂香は弥生を尊敬していた。尊敬する気持ちの中には、姉を思わせるところがあったからだ。
ただ、決定的な違いは、姉はどんなことがあっても相手を信じぬく気持ちを持っているのに対し、弥生は疑う気持ちを持っている。それだけ大けがはしないのだろうが、穂香には弥生の態度は、中途半端に思えた。
――姉に似ているのであれば、相手に対し、どんなことがあっても信じぬく性格であってほしい――
という勝手な思い込みがあり、その中途半端な考えが、穂香の計画立案を助けたのだった。
弥生が自殺をしたというのを知ったのは、実は三枝から聞いた話だった。三枝は少なくとも口の軽い男ではなかった。それなのに、弥生に対しての知りたいことを、惜しげもなく話してくれる。そして、弥生と穂香が似ているということを何度も口にしていた。
その言葉を聞くのは一番辛かった。大好きだった姉に似ている弥生と自分が似ているということは、自分が姉と似ていると言われているのだと思うと、嬉しかった。
弥生の自殺は、穂香にも少なからずのショックだった。なぜなら、弥生のことを知るまでは、弥生を追い込むことになるかも知れないと思っていたからで、追い込まれると自殺してしまうかも知れないとも、漠然と思っていたからだ。自分が手を下すわけではなく、相手が自らを傷つけるというのは、恨みのない人間に対しては、これほど辛いことはないだろう。
弥生の記憶が欠落したことを、誰もおかしいと思わなかったのは、考えてみれば不思議だ。
自殺したその時に記憶を失うというのなら分かるが、しばらく経って記憶が欠落するというのを医者も含めて誰もが信じているというのは、それだけ記憶喪失や欠落についての研究が功を奏していないからなのかも知れない。
穂香は自分の思い通りに事が進んでいくことに満足しながら、あまりにもうまく行っていることに不安も感じていた。
それは弥生が記憶喪失ではなく、記憶が欠落したということだ。もし、弥生の記憶が喪失であったら、思い出すことは無理ではなかったかと思う。欠落していることで、
――いずれは思い出すかも知れない――
と思えることは、穂香にとって、救われた気分になっていたのだ。
穂香の姉は、元々信二と付き合っていた。
信二という男は、父親に逆らってばかりで、高校を出ると家を飛び出して、女性に寄生するように生活していた。
女性にモテる甘いマスクは、男を知っている女性から見れば、いかにも「怪しい男」だということを匂わせるには十分なのだが、普通の女の子であれば、コロッと騙されるに違いない。穂香の姉は、後者だったのだ。
どこで信二と知り合ったのかは知らないが、信二から甘い言葉を掛けられて、今まで知らなかった世界を教えられたことで、信二に対して大きな男というイメージを植え付けられたのだろう。
姉は、優しい男性、そしてその中に大きさを秘めた男性をいつも求めていた。偽りに気付かなかったのは姉が悪いのだろうが、最終的に姉は死を選んだ。
「俺も一緒に死んでやるよ」
という一言が、姉に自殺を覚悟させたに違いない。
――一人じゃないんだ――
信二は巧みに、穂香に自殺を薦め、自分も一緒に死んであげようと言って、結局姉だけに心中のつもりにさせて、殺してしまったのだ。
だが、事件は自殺としてしか、誰も見ていなかった。心中の形跡は残っていない。しかも姉は、普段からまわりに自殺をほのめかしていたところがある。
これが姉の一番悪いところで、すぐに人に対して自殺をほのめかすことで、自分を意識させようとする。それが信二の計画に火をつけたと言っても過言ではない。
姉が信二に巧みに殺されたことを知った穂香は、まず信二を探した。
信二は理沙と付き合っていて、理沙も姉と同じように別れが近づいている雰囲気だった。
――今度は逆を――
と穂香は考え、実行したが、理沙と別の誰かを心中に見せかけて、狂言心中を行わせたが、理沙が本当に記憶喪失になってしまったことは計算外だった。そこに弥生がいたのにはビックリしたが、これも何かの因縁ではないだろうか。
三枝は、元々大学の研究室で、記憶についての研究をしていた。独自に開発した記憶を操作できる薬を一人で抱えていて誰にも話すことをしなかったのは、あまりにも大それたことなので、バカにされるという思いと、危険ドラッグにも等しいもので、使用には時期尚早という結論から、研究もストップさせられたのだ。
そんな三枝が家では酒浸りになり、子供や奥さんに当たってしまったことで、息子があんなになってしまったのだ。
今では立ち直り、過去の苦しみを乗り越えたことで余裕のある人間になっていた。
しかし、自分が犯した罪は消えない。三枝の因果が姉に結びつき、さらには自分をまきこんでいる。穂香には絶対許せるわけはなかったのだ。
穂香は、三枝に近づいた。その時に弥生とも顔を合わせたが、弥生の存在が次第に自分の中で大きくなってくるのを感じた。
――あの視線が怖い――