心中未遂
――私が本当に記憶喪失なのか、確認しに来たのかしら?
と思ったが、今さら確認してどうなるものでもない。
彼の言う通り、自分の方から縁を切ったというのであれば、未練がましいことであるが、そんな様子は見受けられなかった。
ただ、彼を見ていて理沙なりに感じたのは、
――落ち着いた表情に見えるけれど、あれはまるで他人を見るような表情だったわ――
という思いである。
別れを切り出した相手に会いに来てみれば、すっかり自分のことすら忘れてしまっている。すべてが彼にとっても、
――今さら――
という思いなのだろう。
三枝信二という名前をいくら思い返しても、どこからも出てくるものではない。ただ、見覚えはあった。見覚えがあるので、まったく知らない相手だということはないだろう。本当に彼のいうことを額面通りに受け取っていいのかは疑問が残るが、理沙が入院してから出会った、初めて自分を知っている相手であった。
理沙は、弥生のことも思い出していた。
弥生とはほとんど会話を交わしたわけではないが、何か自分と同じものを持っている。この時理沙は、弥生も自分と度合いこそ違えど、記憶を失っている人であることは、雰囲気で分かったが、まさか自分と同じように自殺を試みた人だということまで知る由もなかった。
もし、会話をしようと試みたとしても、言葉が続かなかったような気がする。お互いに言葉に出して会話ができるほどの自信がないのだ。欠落した記憶がどのようなものなのかを考えてしまうと、会話の骨子になるものが浮かんでこない気がした。理沙は入院していて誰とも話をすることはない。先生や看護師の質問に答えるか、一、二度やってきた坂田刑事と会話をしたくらいだった。三枝信二も、理沙の顔を見て、何を話していいのか戸惑っているようだが、それは別れた相手だったら、当然のことであろう。むしろ別れた相手がいくら自殺を図って入院しているからといって、ノコノコやってくるというのもおかしな話だ。
――どう見ても、お見舞いの雰囲気ではないわ――
一応、花束を手に提げてきてはいたが、暗い雰囲気は確かに彼を見ていると感じられるが、理沙にとって、以前にどこかで見たことがあると思った雰囲気とは違っていた。
――まるで何かを探りにきたみたいだわ――
疑えばいくらでも疑える。理沙は自分が疑り深い性格だったことを、今さらながらに思い出していた。
理沙は、自分がどんなタイプの男性なら好きになるだろうと思い描いていた。
あまり軽薄な男は嫌いであるというのが、一番最初に浮かんだ気持ちだったが、それは子供の頃から変わっていない。子供の頃に軽薄な男性に付きまとわれた経験があったというのを、今思い出していた。
そして、その次はと言えば、しつこい男性も嫌いだった。これは大学時代に感じたことだった。
そうやって考えていくと、自分の男性の好みから、喪失したと思っていた記憶が少しずつ明らかになってくるのを感じると、
――記憶なんて、結構曖昧なものなのかも知れないわね――
と思うようになった。
逆に言えば、一つのことがきっかけになれば、芋蔓式に忘れてしまったことを思い出すこともあるのではないかと思えるのだった。
理沙の記憶は徐々にであるが、少しずつ回復しているようだ。
――先生に話せばなんて言うだろう?
と思ってみたが、驚くかも知れない。最初は腫れ物にでも触るような感じだったが、退院が近いことを仄めかされてからは、なるべく普通の態度を取るようになっていた。
記憶喪失とは、記憶が戻る時は徐々に戻るものではなく、一気に戻るものだと思っていた。
――記憶喪失になったきっかけによって違うのではないか――
とも思ったが、きっかけだけではなく、その時の環境にもよるのかも知れない。
見てはいけないものを見てしまった後悔の念であったり、押し寄せてくる恐怖のようなものであったり、さらには、外部からの暴力などによる圧力だったりするだろう。ただ、理沙の場合のように、自殺が絡んでくると、そのどれでもない。しいて言えば直面した死の恐怖というのが一番強いのかも知れない。
記憶喪失が恐怖からのものであるとするならば、徐々に復活してくるものではなく、何かのショックによって、一気に引き戻されるものだと思っていた。
理沙にとって戻ってきた記憶は、崩れた一角から剥げ落ちたものがきっかけになっているとしか思えない。そうであれば、思い出したと思っている記憶が、本当に自分の記憶なのかということが疑問に思えてきた。
訪ねてきた三枝信二という男にしてもそうだ。まんざら知らない人だと思っていたが、次第に戻ってきた記憶を思い起してみると、まんざら知らない人だという意識が覆ってきそうに思えた。
――まんざら知らないなどというようなものではなく、以前から知っていたはずの人じゃないのかしら?
と思えてきた。
そう思うと、
「三枝信二」
再度名前を呼び起こすと、どこかで聞いたように思えていた。ただ、やはりさっきの男とは違う人だ。
しかも、三枝信二の後ろにシルエットで誰かが浮かんで見えてくるように思えてならなかった。それが誰なのかすぐには分からなかったが、その人が女性であることが分かってきた。
「……」
三枝信二という名前に心当たりと、先ほどやってきた男の顔に見覚えはあるが、シルエットに浮かんでいる女性はまったく知らない人だった。
その女性はこちらを見てほくそ笑んでいる。それを見て、三枝信二もほくそ笑んでいるのだが、その顔を見ると、無性に腹が立って、許せない気分にさせられた。
理沙には、その二人が男と女の関係であることはすぐに分かった。男の方は、中年の貫録を十分に醸し出していて、女の方は、水商売の女に見える。
中年の男性に比べて、女性はまだ若い。二十歳そこそこというべきだろうか。幼さの残るその顔には幼さの裏に見え隠れする妖艶さが、まるで男の後ろでシルエットとして立っていることが自然体であるかのように思わせた。
理沙は、自殺する前だったと思うが、誰か知らない人の夢の中に入り込んでしまったのではないかと思えるような夢を見たことがあった。
――まさかそんなことありえないわ――
と、すぐに否定したが、否定がすぐだったことが却って印象深く意識の中に残る原因を作ったのかも知れない……。
◇
ママと弥生の知らないところで、三枝と穂香ができていた。
まわりから見れば、二人はできていて当然に見えるのだろうが、それは素人の目だから、そう見えるのかも知れない。それとも、穂香をそれほど知らなくても、三枝を知っている二人にとって、
――三枝に限って――
という思いが強いはずだ。
しかも、ママも弥生もそれぞれ違う意味ではあるが、穂香を舐めきっていたのかも知れない。
ママからすれば、入ってまだ間がなく、前に水商売を経験したイメージのない穂香に、そこまでできるはずはないという、水商売を経営者として見た目での発想だ。