心中未遂
なぜなら相手は当事者である。当事者なら、理沙の記憶のないのをいいことに、当然自分を庇うような言い方をしてしまうだろう。そうなってしまっては、何を信用していいのか分からなくなってしまう。そう思うと、理沙はあまり男とこの場で二人きりになることを避けたいと思うのだった。
男にはそこまで分かっているのだろうか? 理沙を見つめる目が、
――俺は君のことなら、何でも知っているんだぞ――
と言わんばかりであった。
記憶がない時、一番辛いのは、人から作為的に自分の記憶を作られてしまうことだ。今まさにその状態になりかけていることに、理沙は戸惑いを隠せないでいた。
男が言ったように、別れを切り出したのは理沙本人だったのだろうか? 理由は何なのだろう。別れを切り出した方が傷つくというのは、理論的には確かにおかしいことだとは思うが、恋愛にいろいろな形があるように別れ方にもいろいろある。別れを切り出した方が傷つかないと一概に言えないだろう。だが。傷つき方が問題で、それが原因で自殺に至ったのだとすれば、そこに何か大きな問題が潜んでいるに違いない。
「お名前は何とおっしゃるんですか?」
「三枝信二と言います。理沙さんとは、大学の時からの知り合いで、知り合ってから五年、付き合った期間が二年でしたね」
「ということは、途中まではお友達だったということですか?」
「そうですね、大学卒業までは友達でした。卒業してから付き合ってほしいって、僕の方から告白したんですよ。すると、あなたは、快く承諾してくれました。きっと相思相愛だったんだと思います」
「相思相愛だったのに、別れることになったんですか?」
「ええ、相思相愛だったのは間違いないと思っています。今のあなたには思い出せないことなのかも知れませんが」
信二は、理沙と二年間付き合っていたと言った。就職してからの二年間なので、学生の頃とはかなり違った感覚であろう。
「僕は、卒業してからの二年間を、あっという間だったって言ったら、君は、「そんなことはない。長かった」って言ったんだよ」
付き合っていたことすら覚えていないのに、長かったかどうかなど、分かるわけもない。それなのに、信二が敢えて言ったのは、長さを搦めて思い出そうとすると、思い出せないことも思い出せるのではないかと思ったからなのかも知れない。理沙にとって、そこまで考えられるほど、記憶喪失は一筋縄ではないようだ。一つのことを思い出そうとすると、他のことがネックとなって思い出せなくなってしまうこともあり、この間、弥生と一緒にいる時に感じた堂々巡りが、今の自分のネックとなっていることを、今さらながらに思い知った気がした。
自分の記憶の中で喪失した二年間を知っている人がいる。
しかも付き合っていたのだというのであれば、自分と同じくらいに知っていただろう。ある意味では自分以上かも知れない。
理沙にとって信二の登場が、記憶の扉を開くカギになるのかも知れないと思ったが、理沙自身、誰かに切り開かれる記憶の復活を望んでいるわけではなかった。
なぜなら、自殺をした理由が分からないからだ。
しかも、自殺が一人ではなく、誰かと一緒だったという。皆はそれを心中だと思い込んでいるようだが、実際に一緒に死のうとした相手は、自分と面識がない相手だというではないか。面識のない相手と一緒に死ぬなど、考えられない。
死を目前にしている人は、身辺を綺麗にして死のうと考える人がほとんどだというが、理沙はその気持ちが分からない。死のうと思ったのなら、決意が鈍らないうちに死んでしまおうと思うのではないか。グズグズしているうちに、決意が鈍ってしまうかも知れないと感じるからだ。
鈍るくらいの決意だけで、死に切れるものなのかとも考えられる。身辺を整理して死を迎えようという人は、少々のことでは死に対しての決意が鈍ることはない。それで鈍るくらいなら、本当の決意とは言えないという考えなのだろうが、理沙には分からない。
理沙が感じる死の決意は、衝動的なものしか想像ができないからだった。
それは記憶を失ってしまったから、そう感じるのだろうか。記憶を失う前であれば、余裕を持った気持ちの中で死の決意を感じていたのかも知れない。死の決意に対して、余裕という言葉を当てるのは、少し不謹慎な気がしてきた理沙だった。
――それにしても、私はどうしてこの人と別れようと思ったのかしら?
「信二さん、私があなたと別れようとした理由を、その時の私は何か言っていましたか?」
信二は、言葉の代りに俯き加減になって、首を横に振り、答えてくれた。
「私は、本当に思い出せないんです。あなたとお付き合いしていたという事実も、あなたと別れようとしたその時の気持ちもですね。思い出したいという意志とは裏腹に、思い出すことで、知りたくないことまで思い出してしまいそうで怖いという気持ちもあります。死のうとしたのだから、何かを葬りたいと思ったのも事実でしょうし、葬ることができたかどうか、今の自分には分かりません」
理沙が気になったのは、信二が部屋に入ってきての開口一番、
「すまない」
と言った言葉だった。
何が一体すまないというのか、それが理沙には分からない。
身体はほとんど正常に戻り、後は先生の許可が下りれば退院できるくらいまで回復していた。記憶が喪失していると言っても、いつ戻るか分からない記憶を待ってまで、入院するわけにもいかなかった。通院は必要であろうが、一度部屋に帰らなければならないだろう。
――だけど、どこの部屋?
確かに自殺しようとして身辺整理までしたわけではないが、今さら自分の部屋に戻るなど、考えていなかったのだから、戻ったところでどんな心境になるのか、想像しただけで恐ろしい。
何が怖いといって、自分を知っている人がいても、その人たちを自分がどこまで分かっているかということが不安なのだ。気軽に声を掛けられても、何と答えていいのか分からずキョトンとしてしまい、訝しそうな目で見られている自分を想像しただけで恐ろしくなってしまう。
そんな時に現れたのが、信二だったのだ。
彼はどうやら自分にとって大きな存在だったらしいが、自分から縁を切った相手のようだ。それでも彼は恨み言も言わずに訪ねてきてくれた。渡りに船とはこのことだろう。
どこまで彼に甘えていいのか分からない。ひょっとすると、彼の中で、もう一度復縁を考えているのかも知れない。過去の自分が何を思って彼と縁を切ったのか分からないが、それなりに理由があったのは当然のことである。
ただ、彼がただ復縁を求めたくて現れたわけでもなさそうな気がする。恨み言を言っているわけではないが、理沙の心配を手放しでしているというわけでもなさそうだ。理沙が別れようと言った理由を訊ねた時、教えてくれなかったではないか。
理沙の記憶がないのは、彼にとっていいことなのだろうか? それとも悪いことなのだろうか?
信二はその日、多くを語ることもなく帰って行った。何かを話そうにも、会話にならないのだ。それでも来てくれたということは、理沙にとって嬉しいことではあったが、信二が何かを確かめたくて来たのかも知れないとも思った。