心中未遂
どちらかが違う人だったとも考えられないだろうか。特に男は怪しげな格好をすれば、店に来た男に雰囲気を似せることはできる。男が来店した時、他のお客さんに構っていた人がそこまでハッキリと確認できるものなのかと、気になっていたのだった。
穂香の中で急に弥生の存在が大きなものになってきた。弥生というと、今までは三枝を意識して考えていたが、今度は刑事も一緒に意識しないといけなくなったことで、弥生の存在が、今までよりも大きくなってきたことは事実であった。
――何か時間を遡って、もう一度最初から考え直さないといけないことができたように思えてきた――
弥生の存在が大きくなったことで、原点に戻ってしまうと、今の自分の位置がどうなるか、不安で仕方がないと感じられてならない穂香だった……。
◇
目が覚めたと思った理沙は、気が付けば、ラウンジで表を見ている弥生と目が合った。弥生が自分を見ているのを感じると、自分がそれまで何をしていたのか、急に恥かしくなった。
弥生が自分のことを気にしているなど思いもしない理沙は、もちろん、弥生が自分と同じような自殺の経験があるなど、知る由もない。
だが目を合わせているうちに、
――この人とは初めて出会ったような気がしない――
と思うようになっていた。
弥生に対して意識があったことの裏付けではないだろうか。弥生を見ていると、ついたった今、弥生が自分のことを気にしているなど思いもしなかったという感情が、ウソだったと思えた。自分が感じたことを、ここまで短い間に否定してしまうことなど今までにはなかったことだ。自分の中のプライドが許さないのだろうが、一度自殺を考えてしまうと、プライドなど消えてしまったのかも知れない。
弥生のまっすぐな目を見ていると、自分もさっきまで眠っていたと思っていた時、まわりから、まっすぐな目に見えていたのではないかと思えてきた。
理沙も弥生の中に自分と同じ共通点を見出そうとしていた。話もしていないのに、共通点を見出すというのもないのだろうが、理沙には弥生を見ていて自分が無表情に変わっていくのを感じた。
それは良く言えば、朴訥な無表情さではなく、純粋な無表情さである。悪く言えば何も考えていないように見えてくるところでもあり、弥生がどのように解釈するかであるが、人によっては
――バカにしている――
と思うかも知れない。
しかし、話もしていないのだから、相手の表情だけで判断するのは、性急すぎる、勝手な思い込みでしかないのだ。
「あなたは、ここから何が見えますか?」
先に口を開いたのは、弥生だった。
弥生は理沙が、起きていて夢を見ていることなど知らないので、単純に何が見えるか聞いてみた。
聞かれた理沙も困ったものだ。何と言って答えていいか少し考えていた。
そしてゆっくり口を開いたかと思うと、
「最初は何も見えませんでした」
「真っ黒い状態だったんですか?」
話の腰をいきなり折ったのは、見えなかったという意味を確かめたいと思い、普通見えなかったという場合に、見えるはずのものを口にしたのだった。
「いえ、見えていたのかも知れないけど、覚えていないというのが正解かも知れません。紛らわしい言い方をしてすみません」
理沙は冷静に答えた。あまりにも冷静すぎて、弥生は一瞬臆してしまったが、
「いえ、謝ることではありませんよ。確かに私が今、話の腰さえ折らなければ、そのまま話を続けていても問題ないわけですからね。却ってそれが自然な流れのはずですから……」
と弥生は諭すように話した。
「そのうちに、私は過去の記憶の中にいたような気がするんです。前を向いて見ていたように見えていたかも知れませんが、その時、私は夢を見ていたんですよ」
「あの状態で夢を見ていたというのは、私には俄かに信じられるものではないですね。でも本人がそう言うのだから、本当のことだと思いますよ」
二人の静寂の中での淡々とした会話がラウンジの中に響いていた。知らない人が聞いたら、さぞや冷徹な会話に聞こえるかも知れない。声に抑揚はあるのだが、その抑揚は一体どこから来るというのだろう? 二人からは感情は感じられず、思っていることと、感じていることの事実を口にしているだけだった。
だが、二人には感情はしっかり存在している。相手に合わせるような口調になっているだけで、お互いに感情を押し殺そうという意識はない。ただ、必要以上に感情を表に出すことをしていないだけで、本音をぶつけ合っている二人の表に出す感情は、必要以上のものはない。そのことが会話に抑揚だけを感じさせるものとなっているのだった。
「あなたは、完全に過去の記憶がない状態なんですか?」
弥生が声を掛けた。
「いえ、私も最初はそうだと思ったんですけど、先生のお話では、ところどころの記憶は残っているらしいんです。でも、その記憶が引っかかって、完全に思い出すための障害になるかも知れないとは言われましたね」
「私も記憶が欠落しているって言われたんですよ。自分の中では、記憶が欠落しているという意識が薄いんですけどね。だからひょっとすると、今感じている記憶が間違って繋がっているんじゃないかって思うくらいなんですよ」
弥生は自分の記憶が間違っているのではないかと、かなりの確率で感じている。理由としては、
――間違っていてほしい――
という願望が含まれているからで、自殺を試みたことへの記憶が特に曖昧な気がしていたのだ。
理沙と話をしてみたいと思ったのは、そのあたりにも理由がある。理沙も記憶がないというがどのあたりの記憶がないのか、そこが気になるところであった。
特に理沙の場合は心中である。単独で自殺を思いきったのとは違っているだろう。
ただ、理沙は心中の相手が顔見知りではないという。
――とにかく一人で死ぬのが嫌だったというだけなのかしら?
弥生は却って死ぬなら一人で死ぬべきだと思っている。自殺する人にもいろいろな人がいるだろうが、衝動的に自殺を試みたのなら別であるが、最初から自殺しようと思っているのであれば、身辺整理をしてから死を迎えようとする人、そして、死ぬことだけに神経をすり減らして、それ以外のことは頭にない人。後者は身勝手な自殺かも知れないが、こっちの方が人間らしいような気がする。一度でも自殺を試みたことのある人は、もう一度自殺を試みることがないだろうと思っているのは弥生だけだろうか? 理沙を見ていると自分の考えが怪しくなってくるのを感じていた。
「理沙さんは、自殺をしたこと、後悔しているんですか?」
「私は、どうして自殺しようと思ったかということが、意識の中で曖昧なんですよ。これも記憶を失ったからなのかも知れないと思っているんですが」
――やはり――
弥生は、わざと聞いてみたのだ。
自分も自殺を図った時の心境を曖昧にしか記憶していない。ただ理沙のように記憶の欠落のせいで覚えていないとは思っていない。逆に記憶していないわけではなく、記憶が曖昧だということで、自殺を図った時の心境を思い出したくないからだと思うのだった。