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心中未遂

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 嵐のような半時が過ぎると、少し落ち着いた気分になった。そんな時、自分に馴染みの客がいなかったことがよかったと思えたのだが、ずっと背筋を曲げて洗い物をしていた時に見た視線が急に背筋を伸ばして上から見るカウンターが狭く感じられたのである。
 カウンターが狭く感じられると、急に立ちくらみのような感覚が襲ってきた。中腰から急に背筋を伸ばしたのだから、それも仕方がないというものだ。
 だが、立ちくらみがカウンターを狭く感じさせたわけではなく、立ちくらみが収まってきても、感覚は元に戻るものではなかった。その証拠に店全体を見渡しても、普段と意識は変わらない。それを思うと、見える距離によって、感覚が違ってきていることは間違いないようだ。
 目を瞬かせていたが、そのうちに入り口が急に気になってきたのだ。扉が開いた瞬間に声を発したのはそのせいで、果たして扉の向こうにいる人が誰なのか。その姿はシルエットでしか浮かんでくることはなく、少なくとも穂香はこの店では見たことのない人であることを感じていた。
 穂香の声に皆ビックリして、反射的に扉を凝視した。入ってきた客はさぞやビックリしたことだろう。普段よりも明らかにゆっくりと扉が開いた。反射的に皆が凝視するのと反応は正反対だったのだ。
 入ってきた男は、ライトブラウンのトレンチコートを着て、同じ色の帽子をかぶっていた。片手をポケットに突っこんでいて、年齢がいくつくらいなのか、その時はハッキリと分からなかったが、雰囲気から若い客ではないということは分かった。雰囲気から感じられたのは、貫禄の二文字であろうか、なるべく気配を消そうとしても、オーラを消すことはできないような、持って生まれた雰囲気を感じる客だった。
 男はコートを脱いでまわりを見渡すと、カウンターの奥しか空いていないことに気付くと、ゆっくりとした歩みで、カウンターの奥を目指していた。
 客はまわりを見ることもなく席まで一直線に来たということは、誰も知らないということであり、初めての客であることは穂香にも分かった。
 他の人たちは皆それぞれ自分の客で手いっぱいで、当然のことながら相手をするのは穂香しかいなかった。
 男は席に着くまで帽子を脱ごうとしなかったので、顔は分からない。しかも帽子のかぶり方は目深であり、顔を見せないようにしていたのはわざとであろうか。穂香は少しその客に不気味なものを感じていたのだ。
 席に着き、帽子を脱いだその客は、すぐには顔を上げようとはせず、穂香は声を掛けるタイミングを失い、手におしぼりを持ったまま、待っているしかなかった。
 しばらくして顔を上げたその男の顔は真っ青に感じたが、それよりも顔が蒼くなってしまったのは、穂香の方だった。
――この人、見覚えがある――
 一瞬身構えてしまった自分を感じ、明らかに覚えている様子を、相手は無表情で見ている。睨みを利かせているわけではないが、
――ヘビに睨まれたカエル――
 のようだった。
 相手の男はあくまで無表情、前に知っていたはずの時もこの人はずっと無表情で、それでいて、見られている方は、追いつめられていく感覚に陥っていた。
 ただ、直接自分に関係がある人ではなく、実際に関わりがあったのは母親の方だった。まだその頃の穂香は中学生くらいだっただろうか。
 父親と離婚してしばらくして、母親は情緒不安定な時期が続いた。その時に、魔が差したのか、スーパーで万引きをしてしまったようだ。初犯なので許されてもいいのかも知れないが、母親の言動はおかしかったということで、仕方なくスーパーの店員は、警察に知らせた。
 刑事がやってきて、いろいろと質問をしたが、情緒不安定でありながらも、悪気のないところもあって、その時は厳重注意で帰された。それ以降、万引きなどの行為は行っておらず、警察の厄介になることはなかったのだが、一人の刑事が母親のことを気に掛けてくれていて、しばらくは様子を見てくれていた。
 朴念仁な雰囲気はあったが、穂香のことも気に掛けてくれていたようだ。穂香が親とは暮らせないと思い家を出てきた時も、その刑事は母を気にしていたようだった。
 そこに恋愛感情など存在するはずもないが、それは刑事の側だけに言えることで、母親は、刑事のことを慕いながらも、恋愛感情が生まれていたのかも知れない。
――私が家を出ようと思ったのは、そこにも理由がある――
 と穂香は思っている。
 一組の男女が、歪んでいるように見える恋愛感情を持った中にいることは耐えられないと思ったのだ。
 それでも刑事は母親への恋愛感情を持つことができたのかは、家を出てしまったので分からない。しばらくは気にしていたが、もう気にすることもなくなってきた。その分、自分のことで精一杯になってきた証拠であった。
 今穂香の目の前にいる男性は、その時の刑事だった。あまり感情を表に出す人ではなかったが、ここまで無表情だとは思えない。しかも、穂香のことを一度ちらりと見ただけで、後は視線を合わそうとはしない。最初から視線を合わさないのであれば、わざと合わさないようにしているのは、穂香だと分かったからであろうが、一度は見ているのに、それ以上意識をしないというのは、まるで穂香のことを知らない相手だとして認識している証拠だった。
――他人の空似かしら?
 と穂香は思ったが、気にすればするほど、あの時の刑事以外の何者でもないという結論しか生まれてこない。
「ビールをください」
 やっと頭を上げておしぼりを手にした男性は、すぐに注文を口にした。その声は知っている刑事の声ではなく、ドスの効いた低い声だった。
――むしろこれが刑事らしい声ではないのかしら――
 と思うほどの声に、知っている刑事を今さら思い浮かべてみると、今度は、違う人に思えてきた。
 この人を中心に考えると、本人以外にないような気がするのに、昔に遡って、当時の刑事を思い出すと、目の前の男性はまったくの別人に思えてくるのだ。
――足して二で割ればちょうどいい感覚なのに――
 と感じるほどだった。
 目の前に鎮座している男は決してこちらを睨むわけでも、視線を合わせるわけでもないのに、完全に身体が竦んでしまって、金縛りに遭っているかのようだった。
 今までに金縛りにあったことが穂香にもあった。
 あれは、やはり中学時代で、刑事と会う前のことだった。
 学校の帰りに交差点での交通事故を目撃した時だった。
 結構大きな事故で、少々離れたところからも、ブレーキの音と、衝突する音が激しく聞こえた。
 轢かれた人は、即死だった。
 女性のようで、年齢的には三十歳前後くらいだっただろうか。身体が小さかったので、野次馬に混じっても、前の方へ行けた。最前列まで来た時、ちょうど轢かれた人が仰向けになっていた。完全な断末魔の表情を浮かべていた。
 口を押えて気持ち悪さを何とか凌いでいたが、カッと見開いた目は完全に虚空を見つめていた。
「自殺なんだってね」
 という声が聞こえてきた。
 初めて、その時に人の死というものに直面したかと思うと、自殺という言葉にドキッとした。
――可哀そう。一人で死んでいくなんて――
作品名:心中未遂 作家名:森本晃次