心中未遂
「熱が出るのは、身体の中にある最近と、身体が戦っているからで、熱が出ている時に、必要以上に冷やす必要はないのよ」
と言われたことがあった。
「熱が出ているということは身体が発している信号で、決して悪いことではないのよ」
なるほど、その通りである。
熱が出た時は却って身体を温めて、上がりきったところで汗に出して熱を放出するというのが、一番の方法だという。
――記憶の欠落も、何か精神が発している信号のようなものなのかも知れない――
記憶の欠落が、男に裏切られたこと、そして追いつめられて自殺をしてしまったこと、この二つが影響しているに違いない。その思いをさらに強くしたのが、心中で入院してきた理沙を見たからなのかも知れない。理沙は心中した相手を知らないと言ったが、知らない人と自殺しなければいけないほど。追いつめられていたのだろう。そして理沙がそれほど度胸のある女性では無いことは見ていて分かる。やはり一人で死ぬ勇気がないのだろう。
だが、まわりからはそうは見えないような気がする。
理沙という女性は、どこかしたたかで、何を考えているか分からないところが、まるで心臓に毛が生えているように見えているに違いない。
弥生はそんなことは分からない。それは自分が自殺を試みた人間であるからで、他の人の目がまったく自分たちを分かっていないからだと思うのだった。
弥生に花を贈ってきたという男の心境が、弥生には分からない。
――一体誰が教えたのだろう?
自分と彼が付き合っていて、裏切られたことを知っているのはママだけだったはずだ。ママがそんなことをするはずもない。
それにしても、どうして今頃になって存在を知らなければならないというのだろう? とっくに忘れたはずの相手、自分を裏切り、死まで考えさせた相手、そんな相手が、まさに「今さら」である。
今から思えば、憧れていた先輩は決して紳士的ではなかった。世間知らずだった弥生が彼に憧れたのは、その野性味だった。部活でキャプテンをしているような規格で収まるような人間ではなく、他の人にないところに弥生は魅力を感じたのだ。
考えてみれば、そんな彼に、暖かく迎えてもらおうなど、矛盾した考えだった。男の方としても、
――好かれたから、好きになってやっただけだ――
というくらいにしか思っていないに違いない。常識以前に、モラルが欠如した人間だったのだ。
それでも田舎で付き合っている時は楽しかった。相手に尽くしている自分に酔うことができたからだ。だが、それが相手を増長させたのも事実、
――俺の魅力があの女を従順にしたんだ――
と思っていたに違いない。
まるで主従関係のごとく考えていたとしても不思議ではない男に、暖かさや優しさなどありえない。
――裏切られた――
と思っていたが、そうではない。そんな男を好きになってしまった自分が悪いだけなのだ。
しかし、それでは自分が情けなさ過ぎる。
それを認めたくない自分、そして、まわりがそれに気づく前にこの世から消えてしまいたいという気持ちが働いて、自殺までしようとしたのだろうか?
あんな男のために死ぬなんて、こんなバカバカしいことがあってはたまらない。弥生が今あの男のことから立ち直ろうとしているのは、そのためだった。
――せっかく立ち直ろうとしているのに、どこまでもあの男は私の前に立ち塞がろうとするの?
自殺をしてしまった後悔を、やっとこれからの生きる糧に変えていこうとしているところで、今さら出てくるなど、なんて自分が運に見放されているというのか、弥生は何を恨んでいいのか分からなくなった。
一つの障害を乗り越えて、一つ一つ成長していくことが生きることだと思って、やっと前を向こうとした矢先である。
しかも、花束を贈ってくるなんて、一番似合わないことをする男、白々しさに顔が真っ赤になってくるのを感じた。
男は、ナースセンターにやってきて、花束を渡したという。渡されたナースに話を聞いてみたが。
「愛想のない男性で、こちらの顔を見ようとしないんですよ。帽子もかぶっていたし、どんな顔だったかって言われると、思い出せないくらいだわ。とにかく暗い男で、挨拶の仕方も知らないような男だったわ。そんな人が花束を持ってくるなんて、不釣合いなことをするもんだって思いましたね」
弥生が、花束を持ってきた男の話を聞く時、少し苦虫を噛み潰したような表情をしたことで相手も悟ったのか、思っていることを、正直に話してくれた。実は、これも弥生の誘導尋問で、自分が訝しいと思っている相手の話であれば、もし、気分を害されたとすれば、きっと正直に話をしてくれるだろうという思いがあったからだ。弥生の考えはドンピシャとあたり、彼女は遠慮せずに思ったことを口から吐いた。
普通、人の悪口を聞くのは、いくら気に入らない相手であっても、気分のいいものではない。しかし、ことがあの男のこととなれば話は別だ。
――どんどん悪口を吐いてほしい――
そうすれば、少しは自分の気が晴れるというものだ。普段はこんなに過激な発想を持つことはないのに、あの男は、どこまでも嫌な相手ということになるのだ。
弥生は、あの男に自分の中にある何かをぶつけることで、前に進める気がした。今までなら、こんなことはしたくないと思っていたのだが、きっと自殺を試みて、果たせず戻ってきたことで、できるようになったのかも知れない。これまでできないと思っていたことも、自殺を果たせなかったことでできるようになったこともあるかも知れない。今は気付かなくとも、近い将来、絶対に気付くはずだと、弥生は感じていた。
その男がやってきた時、ナースステーションには、あまり人がいなかった。応対してくれた看護師さんだけだったというが、まわりに人がもっとたくさんいたら、どんな雰囲気だったのだろうと思うと、不思議な気がするのだった。
男の風体は明らかに異様だったという。暗い雰囲気が全体で漂っていて、誰が見ても、気持ち悪いというだろう。
しかし考えてみれば、少しおかしい。
弥生が知っているあの男は、常識を逸脱した男ではあるが、暗く異様な雰囲気を漂わせる男ではない。人をイライラさせるほど人を食った性格の男に、そんな暗い雰囲気が漂うわけがないのだ。誰もいない時に現れたというのも、その時でなければいけない何かがあったのかも知れないと思うと、男が何者だったのか、弥生には気持ち悪さしか残らない気がした。
今まで、弥生の知っている男に、話に聞いた陰湿な男がいなかったわけではない。スナックに来る客の中で、弥生がもっとも苦手とする客がいた。
今まで、言われたくないようなことを言われて、一人落ち込んでしまったことのある客もいたが、そういう客とは違い、その男は何も喋ることなく、一人で隅の方でウイスキーロックで呑んでいる。
話しかけられる雰囲気ではなく、ママですら、放っておいているようだ。客はいつも一人で来ていて、その客が来る時は、絶対といっていいほど、他に誰も客はこないのだ。